新空港候補地の検討
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 10:15 UTC 版)
このため、再拡張の検討に合わせて1961年(昭和36年)頃から、新たな東京国際空港の候補地についての調査が開始された。 千葉県東葛飾郡浦安町(現・浦安市)沖の埋め立て地や、印旛郡富里村・八街町(現・富里市・八街市)、茨城県霞ヶ浦が候補地とされ、埋立工事を前提に木更津沖を推す建設省との対立もあったが、1963年12月11日に運輸省の諮問機関である航空審議会が富里案を最も候補地として適当とした。 東京湾埋立案を特に強硬に主張していた河野一郎が急死した後、1965年(昭和40年)11月18日に、関係閣僚懇談会が新空港建設予定地を富里八街に内定し、橋本登美三郎官房長官が記者会見を行った。既に候補地では反対運動が起きていたが、当時伊豆で療養していた千葉県知事友納武人も含めて、地元への根回しが全くされていない状態であり、突如発表を聞いた富里・八街地区の住民らは、大規模な反対運動を展開した。 ウィキソースに新東京国際空港の位置及び規模についての原文があります。 当時は、下筌ダム建設時に発生した蜂の巣城紛争の経験が、まだ国政に反映されていなかった。反対運動が長引く中で友納千葉県知事と水面下での調整を進めていた佐藤内閣(中村寅太運輸大臣)は、規模を大幅に縮小して、新空港建設予定地を同県成田市三里塚に変更することを1966年(昭和41年)6月22日に発表し、そのまま7月4日に閣議決定した(「新東京国際空港の位置及び規模について」)。これは、国有地である宮内庁下総御料牧場や県有林の転用が可能なこと、またその周辺の主な土地は戦後開拓で入植してきた経済力のない農民のものであったため、民有地の土地取得も容易に進むと考えられたからである。 富里から三里塚へ変更された過程で、国と県の間で交わされたやり取りについては、関係者の証言が食い違っており、議事録やメモも無いことから、新東京国際空港の事業認定取り消し訴訟の控訴審で「(国と県の)どちらが先に、三里塚案を提案したかはわからない」と、東京高等裁判所が1992年(平成4年)10月の判決で結論付けている。
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