文政8年の品増決定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 23:47 UTC 版)
「薩摩藩の長崎商法」の記事における「文政8年の品増決定」の解説
豪商石本家との連携によって長崎商法の売上金回収に目途を立て、入札方法の改善も実現した薩摩藩は、文政8年(1825年)、幕府に対して販売許可品目の増加交渉を開始した。前述のように文政6年(1823年)以降、長崎商法での販売許可品目は6品目であったが、沈香など10品目の追加を求めたのである。品目追加を要請する一方で、年間販売額は銀2070貫目から銀1720貫目に減らす譲歩案もつけた。なお実際問題として長崎商法における販売実績は年間で銀約1200貫目程度であったため、銀2070貫目にこだわる必要性は薄かった。 幕府からの回答は文政8年(1825年)3月、勘定奉行村垣定行と長崎奉行土方勝政が、薩摩藩江戸表側用人格両隠居(重豪、斉宣)続料掛の調所広郷宛に諭達された。内容としては薩摩藩側が求めたように10品目の追加、そして販売年額は銀1720貫目までとして超過した場合は翌年の販売額に組み入れること、そして販売限度額の約7割に当たる銀1200貫目の2割に当たる、銀240貫目と雑費を会所に納入することが決められた。長崎商法の期限は翌文政9年(1826年)から5年間に限ることとし、会所貿易に支障が出た場合には期限内であっても停止するとされた。 販売許可品目の拡大は、もし中国での仕入れ状況によっては入手困難な品目があったとしても、品目が多ければ全体として品欠けとなる危険性は低下しリスク軽減につながる。薩摩藩と連携した石本家によって進められた長崎商法の代金焦げ付き分の整理と、入札方法の改善、そして文政8年(1825年)3月の品増によって、長崎商法は順調に発展していく。文政8年(1825年)10月には重豪の命を受けて品増に向けて活躍していた家臣に知行が与えられ、文政10年(1827年)4月には調所広郷がやはり品増に向けての活躍に褒賞が与えられている。そして石本家の五代勝之丞も、文政13年(1830年)に品増と期限延長についての活躍と、後述の長崎に来航した中国人商人たちの長崎商法に対する苦情処理に対する“抜群の骨折”を賞されて、十五人扶持が与えられるとともに長崎蔵屋敷産物方御用聞に任じられた。
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