文化朋党事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:38 UTC 版)
斉宣は天明7年(1787年)、15歳で藩主となったものの、藩の実権は父、重豪が握り続け、実務は重豪の側近である家老等、上位の門閥家臣が担っていた。文化2年(1805年)11月、斉宣は藩政改革の断行を決断し、まずこれまで重豪のもとで藩政を担っていた多くの役職者を更迭し、自らの側近を改革の推進者として登用した。中でも中位、下位の藩士を積極的に抜擢していく。 これまで薩摩藩の儒学は荻生徂徠の流れを汲む古学が主流であったが、改革の推進者として斉宣によって登用された人材の多くは、朱熹、呂祖謙の著作である近思録を重んじ、常日頃政治的な見解を盛んに討議し合っていた同志たちであった。近思録を思想的バイブルとして藩政改革を推進した彼らのことを「近思録派」と呼ぶようになった。近思録派を抜擢した斉宣は、儒教思想に基づく理想的な政治を目指した藩政改革を進めていくことになる。 藩主斉宣による藩政改革では、まず藩士たちに改めて倹約令を徹底させた上で、質実剛健な士風を取り戻すよう諭達した。浮薄に流れた風潮の粛正は民間部門にも及んだ。荒廃が進んでいた農村の支援策として農民負担の軽減、そして困窮した農民に対する金銭給付などを実施した。また15万両の借り入れと参勤交代の15年間免除を幕府に請願することを計画した。そして増収策としては幕府に琉球貿易で清から入手した中国産品の販売品目を増やす願書を提出した。 この藩政改革に対し、先代の藩主、重豪は激しく反発し、巻き返しに乗り出した。重豪は将軍徳川家斉の正妻、広大院の実父であるという立場を利用した。もちろん藩主の斉宣は抵抗したものの、重豪は広大院を通じて幕閣を動かし、幕府の意向という大義名分のもと斉宣の抵抗を抑えつけることに成功する。政治的に敗北した近思録派は厳しく弾圧され、いったんは排除された門閥家臣たちが復帰し、改革に伴う政策は破棄された。藩主斉宣も責任を取らされて文化6年(1809年)に隠居し、嫡子の島津斉興が新藩主となった。
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