宝島事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 14:58 UTC 版)
文政7年(1824年)8月、イギリス船(捕鯨船)が来島し、島民に牛を譲渡するように要求したが、在番および郡司が拒否したため、20名から30名程度のイギリス人が島に上陸し牛3頭を略奪した。この事件で横目の吉村九助が在番所でイギリス人1名を射殺、流人であった本田助之丞と田尻後藤兵衛の2名の武士も争いに参加したとある。本田助之丞は文化朋党事件により遠島に処されている。射殺された船員は塩漬けにされた。この事件が1つの要因となり、翌年の文政8年(1825年)には異国船打払令が出された。この事件の顛末を吉村昭が短編小説『牛』で描いている。島にはこの事件に由来したイギリス坂という地名が存在する。 「吐噶喇列島#沿革」も参照 行政区分の変遷は吐噶喇列島に準じるが、1952年(昭和27年)の本土復帰時に、小宝島の領域が大字宝島から分立され、大字小宝島となった。 なお、17世紀後半のイギリスの海賊、キャプテンキッドがこの島に財宝を隠したという言い伝えがある。
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