政治・宗教に関与
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「ヒュー・ピーター」の記事における「政治・宗教に関与」の解説
1648年12月のプライドのパージで議会の長老派が追放、独立派によるランプ議会が形成されるとピーターの立場も向上、チャールズ1世処刑裁判では死刑を決定した裁判官(王殺し)ではなかったが、同年の第二次イングランド内戦(英語版)直後から国王処刑を主張、裁判で積極的に処刑を推し進め賛成する説教をした。合わせて革命の輸出として他国でも君主制が廃止されることを願うことも述べたが、この行動はピーターの最期を決める原因になった。 1649年1月にチャールズ1世が処刑されてからはクロムウェルの側近となり、5月に彼が平等派を鎮圧をしたことを感謝するロンドンの祝賀会にクロムウェルと共に出席、8月から開始されたクロムウェルのアイルランド侵略で7月から先発隊に入り2度目のアイルランド遠征に加わった。アイルランドに対する情け容赦ない態度は変わらず、侵略を擁護する発言やアイルランドから奪った土地を入植者へ与える旨を書き残している。 帰国後はイングランド共和国における理論家、1653年に護国卿に就任したクロムウェルの忠実な側近として活動した。アイルランド侵略と同時期にウェールズで福音宣教を計画し1650年に実行され、1651年に出版した『よき為政者の善政』ではアメリカとオランダをモデルにした政治・宗教・経済政策を提言し共和国に指針を与えようとした。外交・宗教政策にも関与、1652年に始まった第一次英蘭戦争に反対、1654年には牧師認可の権限を与えられ審査委員会に属し、1658年にはグッドウィン、ジョン・オウエン(英語版)らとサヴォイ宣言を起草するなど活動は広範囲におよんだ。
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