攻城戦開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 06:13 UTC 版)
紀元前406年の夏に、カルタゴ軍はアクラガスに向かって進軍したが、ギリシア側はこれに抵抗しなかった。進軍にあたり、ハンニバル・マゴは軍船をモティアに残したままにした。アクラガスはカルタゴ軍の略奪を避けるために、穀物を収穫して城内に運び込み、全市民(およそ20万人)が城内に退避して包囲戦に備えた。カルタゴ軍がアクラガスに到着すると、ハンニバル・マゴは攻城戦の準備を開始した。十分に防御された野営地を2箇所設営したが、主野営地は塹壕と柵で防御されアクラガスの西側のヒプサス川(現在のサンタアナ川(en))右岸に設営され、もう一つ(全軍の1/3を収容)はアクラガスの東側のアクラガス側左岸に設営され、ゲラとの交通を遮断した。アクラガス軍はこれを妨害せず、城内に留まった。 戦闘を開始する前に、ハンニバル・マゴはアクラガスに講和を申し出た。条件はアクラガスがカルタゴ側につくか、あるいはカルタゴが他のギリシア殖民都市と戦争になった場合に中立を保つというものであった。どちらの条件もアクラガスは拒否した。城内の男性は全員が兵士となって城壁の防御に努め、傭兵部隊はアテナイの丘(アクロポリスとの説もある)に配備された。また、城壁が破壊された場合に対処するために、予備部隊も置かれた。全ての戦闘準備が整い、ギリシア側はカルタゴ軍の攻撃を待ち受けた。 ハンニバル・マゴは都市を包囲する外壁を作り、飢餓を生じさせて降伏させようとした。アクラガスは周囲より高い場所にあったため、城壁に対する直接攻撃や、複数個所での同時攻撃を実施するのは困難であった。同時に、西側の城門の攻撃のために2基の攻城塔を使用した。カルタゴ軍は丸一日の攻撃で防御側に損害を強いたものの、城門の突破はできなかった。その夜に、アクラガスは急襲部隊を出して、攻城塔を破壊した。続いて、ハンニバル・マゴは場外の墓石や他の建物の瓦礫を利用して、攻城用の傾斜路を作るように命じた。カルタゴ軍兵士は墓石を壊すことに躊躇し、その後ペストが蔓延するとパニックに陥った。このペストの蔓延により、ハンニバル・マゴを含め多くの兵士が病死した。
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