拡大派と不拡大派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 05:01 UTC 版)
盧溝橋事件後、陸軍内部にあっては、この事件を奇貨として中国の抗日姿勢に一撃を加え、日本の華北での地位を確固たるものにせよとの声が陸軍省や参謀本部からも上がり、また、関東軍からも朝鮮軍からも、華北出兵の準備があるとの報告が入った。当時の陸軍には、満洲事変以来の中国側の対応からして、中国は日本の武威をもってすれば容易に屈服するであろうという「対支一撃論」の見通しをもつ一派があり、彼らは「拡大派」と呼ばれた。彼らは来るべきソビエト連邦との戦争に備えて、後顧の憂いを断つためにも、この機に乗じて中国に出兵し、華北を中央から分離させるといった懸案解決を図るべきとの主張を展開したのである。「拡大派」には、杉山元陸軍大臣をはじめ、陸軍省の田中新一軍事課長、参謀本部には武藤章第三課長(作戦課長)と永津佐比重支那課長がいた。「拡大派」はしかし、当初から中国との全面戦争を考えていたわけではなかった。彼らは戦場を華北に限定することが可能であると考えていたのであり、そこで一撃を加えれば中国を屈服させることができるという、きわめて楽観的な見通しに立っていたのである。 それに対して、「不拡大派」には、参謀本部参謀次長の多田駿、石原莞爾第一部長(作戦部長)、河辺虎四郎第二課長(戦争指導課長)、陸軍省では柴山兼四郎軍務課長がいた。彼らは、対ソ戦準備のためにはむしろ今は満洲国育成のために力を注ぐべきであり、中国との衝突は極力回避すべきであると主張した。そしてまた、中国の抗戦力には軽侮しがたいものがあって、中国との武力衝突が全面化すれば、必ずや紛争は泥沼化し、その間隙を突いてソ連が軍事介入する危険がおおいにあり、そうした事態は避けなければならないという考えに立っていた。 「不拡大派」の中心人物は参謀本部の石原作戦部長であったが、石原が「拡大派」を説得しようとしたとき、彼らに、自分たちは満洲事変における石原をこそ模範としているのだと逆襲されて色を失ったという逸話がのこっている。
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