拡大政策と影
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 03:58 UTC 版)
義氏の次なる目標は鳥海山を越えたむこうの由利郡であった。義氏は由利十二頭の諸将と関係を結び、仙北の小野寺氏と綿密に連携を図りながら、由利郡に介入してゆく。また、最上郡では最上氏の内乱である天正最上の乱が勃発。義氏も縁戚関係のある大江氏庶家・白岩氏との関係で最上義守派として介入を試み、天正2年(1574年)に親義守派が属する伊達氏と盟約を結ぼうとしたが拒否され実現には至らなかった。 積極的な外交政策を展開し庄内地方に権威を振るった義氏であったが、圧倒的な軍事力、そして上杉謙信との関係が背景にあることによるものであった。しかし天正6年(1578年)、頼みとした上杉謙信が急死すると、家臣の国人衆である来次氏秀が突如謀反を起こした。この謀反は鎮圧されたものの、隣国の最上氏が勢力を拡大させていた事もあり、義氏は氏秀に対し知行を加増して手懐けさせざるを得なかった。また、謙信の死後に越後ではお家騒動・御館の乱が発生し、義氏は伊達氏・蘆名氏との協調を重視し景虎を支持したが、本庄繁長は景勝を支持する。ここにおいて両者は敵となり、義氏は上杉氏への繋がりを失ってしまう。
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