戦前・戦中期の活動
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1920年に旧制中学を中退して、アルバイトをしながら漫画を描き始める。1923年に大阪の漫画雑誌「大阪パック」で小寺鳩甫に師事して、編集をしながら漫画を描く。1929年からは大阪新聞の嘱託の漫画記者になってカットや漫画を描いた。1935年に日活京都漫画部に入社してアニメーターとなるが、これは、兄と親交のあった俳優の大河内伝次郎の紹介によるものであった。日活京都の漫画部では、トーキー漫画映画第一作『島の娘』への参加を皮切りに、田中与志監督の『忍術火の玉小僧 山賊退治の巻』『忍術火の玉小僧 海賊退治の巻』 などの作画を担当したが、漫画部が1935年6月に解散となり、酒井は再び「大阪パック」と大阪新聞での漫画家生活に戻る。 1940年に描き出した軍人の慰問袋向けの漫画小冊子がヒットしたことで、酒井は同種の小冊子や時局に迎合した漫画を描く一方で、新作落語の台本を書くこともあった。1941年には日本映画科学研究所に入社し、『海の小勇士』『空の慰問隊』の演出と作画、『躍るエンジン』の作画を担当した。以後、酒井の漫画にアニメーターとしての経験が活かされるようになり、また後述のように晩年(1960年代後半)のテレビアニメの仕事にもつながった。1942年には漫画家の翼賛組織の日本漫画奉公会の関西支部長に就任している。
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