恐怖のマスター
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 07:44 UTC 版)
「エーリッヒ・ミールケ」の記事における「恐怖のマスター」の解説
1940年にモスクワに逃れる。終戦後の1945年に焦土と化したドイツに帰国、ソビエト占領軍当局に協力し、共産党(のちにドイツ社会主義統一党=SED)の中央委員会警察・司法担当委員となる。 1948年に結婚。1949年のドイツ民主共和国建国の翌年2月に創設された国家保安省(Ministeriums für Staatssicherheit、略称シュタージ Stasi)で次官として中枢的な人物として活動し、同年党中央委員会に入る。 1957年にシュタージ長官だったエルンスト・ヴォルヴェーバー(Ernst Wollweber)がヴァルター・ウルブリヒト書記長により更迭され、ミールケがその後任となった。彼の指導下で、就任時の職員1万4千人だったシュタージは、1989年には正規職員9万1千人、非公式協力者17万3千人の巨大組織に成長、彼には「恐怖のマスター」というあだ名が付けられた。特に彼の命令により、東ドイツの国境警備隊は、ベルリンの壁や東西ドイツの国境線を越えて西側に亡命しようとする者に対して発砲した。 1971年、ウルブリヒト書記長が高齢と健康を理由に辞任し、エーリッヒ・ホーネッカーと交代した。ホーネッカーはミールケをドイツ社会主義統一党政治局員候補にした。1976年に正式に政治局員となる。また1960年から1989年まで国防委員会委員を務め、1980年には上級大将に昇進。1958年からは人民議会議員も兼ねた。 1954年に祖国功労勲章金メダル、カール・マルクス勲章受章5回。労働者英雄(ドイツ語版)の称号を2度、ドイツ民主共和国英雄の称号を2度受章。熱狂的なスポーツ・ファンでもあり、内務省スポーツ部「ディナモ」に長年君臨しSCディナモ・ベルリンを強力に支援し、さまざまなスポーツ団体の総裁も務めた。
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