恐怖のタラワ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 00:44 UTC 版)
詳細は「タラワの戦い」を参照 詳細は「マキンの戦い」を参照 1943年11月、ギルバート諸島のマキン島とタラワ島にアメリカ軍が侵攻、両島を守る日本軍将兵はわずか3,000人足らず(朝鮮人労務者を加えると5,000人)に対して、アメリカ軍はアメリカ海兵隊を主力とした40,000人で攻撃したのにも関わらず、日本軍守備隊は奮闘し、特に第三特別根拠地隊司令官柴崎恵次少将が徹底した要塞化を進めていたタラワ島に上陸したアメリカ軍は、日本軍の激烈な抵抗の前に大損害を被り、のちに「恐怖のタラワ」と呼ばれることとなった(タラワの戦い)。タラワ島の激戦の様子はタイム誌によってアメリカ国内に報道されたが、「先週、約2,000ないし3,000のアメリカ海兵は、その大半が今や戦死したかもしくは負傷しているが、全国民にたいしてレキシントン・コンコードの戦いやアラモの戦いやリトルビッグホーンの戦いや ベローウッドの戦い(英語版)などの名前のわきに並ぶべき、不朽の名前を一つあたえた。その名前はタラワであった。」とセンセーショナルな記事であったため、アメリカ国民に動揺が広がった。 マキン島においても第3特別根拠地隊分遣隊243名の日本軍に対して、上陸した第27歩兵師団(英語版)の2個連隊6,500人は実に27倍の兵力ながら苦戦を強いられた。また、この戦闘中に伊175が上陸支援中の護衛空母リスカム・ベイを撃沈、マキン島でのアメリカ軍死傷者は1,327人にもなり、朝鮮人労務者を加えた日本軍戦死者591人を上回る損害を被り、作戦を指揮したニミッツを憤慨させ、この後の上陸作戦に対する大きな教訓となった。
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