志度の戦いとは? わかりやすく解説

志度の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 05:08 UTC 版)

志度合戦」の記事における「志度の戦い」の解説

1185年3月22日文治元年2月19日)の屋島の戦い源義経奇襲を受け、平氏本陣であった屋島捨てて海上逃れ讃岐国志度寺に引き籠もった。『吾妻鏡』文治元年2月21日1185年3月24日)条によると、義経80騎の兵を率いて平氏追撃し志度至った平氏家人であった田内左衛門尉義経帰順し、また河野通信30艘の船を整えて加わった義経阿波国渡り熊野別当湛増源氏味方するため渡海するとの噂が京まで届いた『平家物語』志度合戦」によると、義経側が小勢であることに気づいた平家方1,000余人が渚に上がって攻め戦ったが、屋島残っていた源氏200余騎が駆けつけてくると、大軍続いてくると見た平家勢は再び船に戻り海上逃れていった。四国追われ、陸は源氏大手軍の源範頼押さえられているため九州へ渡ることもできず、平家海上孤立し瀬戸内海転々としながら彦島退いていった。 志度首実検をした義経は、郎党伊勢義盛呼んで平家方の田内左衛門尉教能を連れてくるよう命じた。 義盛は軍勢をみな白装束にしてわずか16騎を率いて向かい使者立てて戦意がないことを伝え、教能と対面する。義盛は「一昨日勝浦源氏勢によってあなたの叔父桜間介良遠が討たれ昨日屋島御所内裏焼き払われ大臣親子生け捕りにし、平家公達討ち死にわずかに残った軍勢志度でみな討たれました。あなたの父阿波民部重能が捕虜となってこの義盛が預かっており、子のあなたが何も知らず明日戦いをして討たれるであろう夜通し嘆いておられ、あまりに気の毒でお知らせしようと出向いてまいりました戦って討ち死にするのも、降伏して父に再会するのもあなた次第です。」と言葉巧み欺き、教能は「すでに聞いていることに違いはない」として甲を脱いで弓の弦を外し、3,000余騎の兵とともに義経帰伏したという。これが後に壇ノ浦の戦い阿波民部重能が平家裏切伏線となっている。 同年3月25日文治元年2月22日)に水軍調達した梶原景時が140余艘の船をもって屋島到着した大手軍である源範頼軍からの予定行程思われるが、『平家物語』ではその遅参六日の菖蒲喩えて嘲笑されたとしている。

※この「志度の戦い」の解説は、「志度合戦」の解説の一部です。
「志度の戦い」を含む「志度合戦」の記事については、「志度合戦」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「志度の戦い」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

志度の戦いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



志度の戦いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの志度合戦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS