志度の戦い
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1185年3月22日(文治元年2月19日)の屋島の戦いで源義経の奇襲を受け、平氏は本陣であった屋島を捨てて海上に逃れ、讃岐国の志度寺に引き籠もった。『吾妻鏡』文治元年2月21日(1185年3月24日)条によると、義経は80騎の兵を率いて平氏を追撃し、志度に至った。平氏の家人であった田内左衛門尉は義経に帰順し、また河野通信は30艘の船を整えて加わった。義経は阿波国へ渡り、熊野別当湛増も源氏に味方するため渡海するとの噂が京まで届いた。 『平家物語』「志度合戦」によると、義経側が小勢であることに気づいた平家方1,000余人が渚に上がって攻め戦ったが、屋島に残っていた源氏勢200余騎が駆けつけてくると、大軍が続いてくると見た平家勢は再び船に戻り海上へ逃れていった。四国を追われ、陸は源氏方大手軍の源範頼に押さえられているため九州へ渡ることもできず、平家は海上に孤立し、瀬戸内海を転々としながら彦島へ退いていった。 志度で首実検をした義経は、郎党の伊勢義盛を呼んで、平家方の田内左衛門尉教能を連れてくるよう命じた。 義盛は軍勢をみな白装束にしてわずか16騎を率いて向かい、使者を立てて戦意がないことを伝え、教能と対面する。義盛は「一昨日勝浦で源氏勢によってあなたの叔父桜間の介良遠が討たれ、昨日は屋島の御所・内裏は焼き払われて大臣親子を生け捕りにし、平家の公達は討ち死に、わずかに残った軍勢は志度でみな討たれました。あなたの父阿波民部重能が捕虜となってこの義盛が預かっており、子のあなたが何も知らずに明日戦いをして討たれるであろうと夜通し嘆いておられ、あまりに気の毒でお知らせしようと出向いてまいりました。戦って討ち死にするのも、降伏して父に再会するのもあなた次第です。」と言葉巧みに欺き、教能は「すでに聞いていることに違いはない」として甲を脱いで弓の弦を外し、3,000余騎の兵とともに義経に帰伏したという。これが後に壇ノ浦の戦いで阿波民部重能が平家を裏切る伏線となっている。 同年3月25日(文治元年2月22日)に水軍を調達した梶原景時が140余艘の船をもって屋島へ到着した。大手軍である源範頼軍からの予定の行程と思われるが、『平家物語』ではその遅参を六日の菖蒲に喩えて嘲笑されたとしている。
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