御塚・権現塚古墳
名称: | 御塚・権現塚古墳 |
ふりがな: | おんつか・ごんげんづかこふん |
種別: | 史跡 |
種別2: | |
都道府県: | 福岡県 |
市区町村: | 久留米市大善寺町 |
管理団体: | 久留米市(昭6・12・28) |
指定年月日: | 1931.10.21(昭和6.10.21) |
指定基準: | 史1 |
特別指定年月日: | |
追加指定年月日: | 昭和54.05.21 |
解説文: | 畧方形ノ造出アル圓形墳ニシテ高サ約三十四尺徑約三十一尺頂部ニ発掘セシ形迹アリ環湟ハモト三重ヨリ成リ今第二湟第三湟ハ多ク埋メラレテ僅ニ一部ヲ存セルニ過ギザレドモ尚舊規ノ見ルベキモノモアリ 圓形墳ニシテ高サ約三十尺徑約三十一尺頂部ニ発掘セシ形迹アリ環湟ハ二重ヨリ成リ内外二湟ヲ界セル地域ニ埴輪圓筒竝列シヨリ舊規ヲ存セリ コノ地方ニ於ケル他ノ古墳ガ殆ド皆耕地整理ノ爲メニ廃滅ニ帰シタルニ係ラズ御塚権現塚両古墳ガ幸ニ保存セラレタルノミナラズソノ二重又ハ三重ノ環湟ヲ有セルコトハ近畿ニ於テモ類稀ナル特例ナリトス S53-12-049[[御塚]おんつか]・[[権現塚]ごんげんづか]古墳(旧名称 御塚古墳、権現塚古墳).txt: 御塚と権現塚の両古墳は、久留米市街地の西方筑後川の左岸の低台地上に相接して営まれた[[三潴]みずま]地方の代表的な古墳である。西方の御塚は、帆立貝式前方後円墳で昭和45年の発掘調査により、墳丘主軸長76メートル、後円部直径67メートル、後円部高さ約10メートル、前方部幅22.5メートル、外周に3重の外濠外堤をめぐらしていて、外堤外径が123メートルに達することが判明した。東の権現塚は御塚と約20メートルを隔てて営まれた円墳で直径51メートル、高さ9メートル、2重の外濠外堤とその外側に空濠を伴い、その外径は150メートルに達することが判明した。両墳には円筒埴輪片が認められ、両古墳が相前後して営まれたこともわかった。 この両墳は、かつて大善寺町付近に営まれていた40余基の古墳群の中心的なものとして相接して営まれたものであり、かつ御塚・権現塚として並び称されたものであるので、これら2件を統合し、一部地域を追加指定するものである。 |
御塚・権現塚古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/08/09 08:26 UTC 版)
御塚・権現塚古墳(おんつか・ごんげんづかこふん)とは、福岡県久留米市大善寺に隣接して所在している二つの古墳を合わせた併称である。1931年10月21日に国の史跡となった。
御塚古墳
外観は前方部が短く平坦なため、その形状から帆立貝式前方後円墳とも呼ばれるものである。築造時期は5世紀頃と推定されている。弘化5年(1848年)に測量を行った久留米藩の学者矢野一貞の写生図では、3重の堀で囲み直径が130メートル程あったことが分かる。
現在、前方部をめぐる部分は福岡県道23号久留米柳川線が開通したため殆ど原形を留めていない。
権現塚古墳
御塚古墳の北隣にある。2重の濠を巡らせた円墳で、外堤の直径は約150メートル、墳丘は径55メートル。外濠は一部埋め立てられた所があり渡ることが出来るが、墳丘は内濠があり渡ることが出来ない。内堤上からは埴輪片や土器などが発見されているが、古墳そのものの築造年代判定資料に乏しく内部構造も不明である。
関連項目
外部リンク
固有名詞の分類
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