強権による石徹白支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 18:17 UTC 版)
石徹白豊前は自らの父の葬儀も済ませぬ内に石徹白の社人たちを集め、吉田家からの指示として「白山中居神社の社人は吉田家の支配を受け、諸事は石徹白豊前に従う旨」の書状に捺印するように言い渡し、もし従えない場合は神職を取り上げ、神田の百姓とするとした。また上村治郎兵衛に対して外出を禁ずる禁足令を出した上で、豊前は宝暦4年3月4日(1754年4月25日)に郡上八幡に向かい、宝暦4年3月8日(1754年4月29日)、石徹白に戻ってきた。豊前に続いて宝暦4年3月11日(1754年5月1日)、郡上藩寺社奉行の手代、片重半助が2名の足軽を引き連れて石徹白に現れ、先に豊前が禁足令を出していた上村治郎兵衛を、取調べ自体全く行うことなく「吉田家の命により追放欠所とする」と言い渡し、飛騨国境まで連行して追放した。これはかつて上村治郎兵衛が、石徹白豊前が東本願寺に対して行った抗議内容には事実と異なる点があるとして豊前を非難したことに関する報復とともに、石徹白の支配をもくろむ豊前にとって、社人の中でも長老格であった上村治郎兵衛が煙たい存在であったことと、吉田家と石徹白豊前の支配を受け入れようとしない社人たちへの見せしめの意図があったと考えられる。 また石徹白豊前は、父である石徹白大和が伐採したことで問題となった白山中居神社の造営林を伐採し、用材を売却していた。もともと造営林は白山中居神社の造営、修復用の材木を伐採する林であり、私用での伐採は禁じられていた。そのため造営林伐採をとがめられた大和は神主交代の話が取り沙汰されることになった。しかし豊前は人を雇って堂々と造営林を伐採するとともに、他人の持ち山にまで伐採を強行するに至った。石徹白の社人らはこの豊前の行動を郡上藩寺社奉行に訴え、神主の交代を要求したが、奉行の根尾甚左衛門は、証拠の無い訴えを取り上げるわけにいかぬとし、社人らの訴えを全く取り上げようとしないどころか、逆に石徹白豊前を中傷したとして社人らを叱責した。上村治郎兵衛追放と造営林伐採問題について全く吟味しようともしないことから、豊前と郡上藩が結託していることに気づいた反豊前派の社人らは、吉田家の権威を背景に石徹白支配を強権的に押し進める石徹白豊前の行動を抑えるためには、幕府に直接訴えるしかないと判断した。
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