引退後のメディア登場
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原節子は明確に引退宣言はしていないので、実質最後の作品になった『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』(1962年)以降に限って記す。そのほとんどが隠し撮りであった。 1963年12月12日、小津監督の通夜に出席。『日刊スポーツ』記者のインタビューに答えている。「先生のあの独特の作風が、もう二度と見られないと思うと…(中略)。せめてもう一度、小津先生とごいっしょに、精いっぱいの仕事ができたらと、それだけが、ほんとうに心残りです」。この時は会田昌江名で弔問に訪れていた。 1968年9月、野田高梧の通夜出席。 1970年6月、『週刊平凡』の隠し撮り。 1973年2月、『報知新聞』へのコメント。在米大使館から報知新聞へ持ち込まれた話で、アメリカの退役軍人が中国で拾ってきた日の丸に寄せ書きの一部として原節子と水戸光子のサインがあった。そのことについて電話取材に応じている。それについて義兄たちと一緒に考えたものの「どうしても思い当たる人がいない」と答え以下のように続けている。「私はもう原節子という名前を捨てて、いまは本名の会田昌江で暮らしておりますが、あのころは戦時下で、この種の国旗については何百回とサインしていますので、ほんとうに申し訳ありませんけど、正久さんというお名前には記憶がありません」と答えている。これが、引退後の正式なマスコミに対する最後の肉声となっている。 1975年8月15日、TBS『モーニングジャンボ奥様8時半です』の隠し撮り。 1978年6月、『週刊文春』の隠し撮り。 1983年1月、『FOCUS』の隠し撮り。 1985年11月、『Emma』の隠し撮り。 1993年、笠智衆の通夜前に出席。 1994年、高額納税者番付全国75位に登場。 2000年6月、『FRIDAY』の隠し撮り。 2002年7月、『女性自身』の隠し撮り。
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