建設 - 草創期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 02:26 UTC 版)
球場は大阪陸軍造兵廠の南隣に位置し、米軍による爆撃で焼け野原と化していた大阪市東区森之宮西之町(現:同市中央区森ノ宮中央2丁目)の広大な一画を用地として建設されることとなった。総工費は6000万円で、設計および工事は大林組が担当。1950年3月15日に着工し、6月28日に竣工。29日に関西大学野球部と明治大学硬式野球部を招いて日本生命野球部との招待試合が行われ、30日に落成式が挙行された。 7月1日の毎日オリオンズ対南海ホークス戦を皮切りに、1950年にはプロ野球公式戦が21試合行われたが、使用の半数以上を会社や学校などのアマチュア野球やレクリエーション利用が占めた。また、建設当時は用地取得が十分に進まなかったこともあり、外野フェンスが直線の四角い形をした狭いグラウンドで左中間および右中間が浅く、本塁打が出やすい球場であった。また、下柳剛の証言によると両翼が実測80m程度であったとのこと。内野スタンド1万4000人、外野芝生席9000人、計2万3000人を収容することができた。 その後もセ・リーグ公式戦が年10試合前後行われたが、1954年シーズン終了後に日本生命はアマチュア専用球場とする方針を打ち出し、以降3年間プロ野球の試合は行われなくなった。この年のシーズンオフに外野フェンスの拡張工事が行われ、直線であった外野フェンスが丸みを帯びたものとなった。交通の便も良い上にプロ野球の試合がなく平日も利用できるため、1955年に関西六大学リーグが主会場を阪急西宮球場から本球場に移転。1956年からは近畿大学野球リーグの主会場となり、1997年まで連盟事務所が球場内に設けられた。その後も閉場まで全国高等学校野球選手権大会大阪大会や社会人、学生野球など関西のアマチュア野球の会場として利用された。
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