廣島銀行時代
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「廣島銀行 (1897年-1920年)」の記事における「廣島銀行時代」の解説
1897年1月1日、第百四十六国立銀行は資本金を600,000円に増額して普通銀行である「廣島銀行」として再発足し、1901年末現在でその払込金は300,000円に及んだ。中島新町に所在していた本店は、日露戦争後の好景気のなかで1908年8月に本川橋東詰の元柳町(現・中島町)に新築移転した。 大正期に入って県下の銀行に取り付け騒ぎが頻発するようになると、中小銀行の休業や破綻が相次いだが、比較的規模の大きかった廣島銀行は第一次世界大戦中の好景気に乗って経営の拡充を図り、1916年(大正5年)に豊田銀行・村上銀行、1918年に賀茂銀行・芸陽銀行の合併・買収や経営権獲得をすすめた。しかし大戦後の不況により1919年には廣島銀行も取り付けに陥ることとなった。 これより先、政府による銀行合同政策を背景に、若林賚蔵広島県知事によって1919年夏以降、当行と広島商業銀行との統合が周旋されていたが、これに第六十六銀行が加わり翌1920年春には3行の合併契約が結ばれた。これに加え、別個に合併論議が持ち上がっていた三次貯蓄銀行・比婆銀行・角倉銀行・双三貯蓄銀行の備北4行が新たに参加することとなり、同年6月30日、新立合併により「(旧)藝備銀行」が発足した。これにより当行は10月1日に解散した。
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