広忠襲撃事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/16 16:51 UTC 版)
松平広忠を刺殺したという説のほか、襲ってすらいなかったり、襲っても殺害まで至らないなど諸説ある。 大久保忠教の『三河物語』には、岩松八弥の名前および広忠襲撃事件の記載はなく、松平広忠は病死とある。 『東照宮御実紀』(徳川実紀)には、岩松八弥が隣国の刺客として、広忠を襲撃して一刀突いたとあるが死去とされていない、後に逝去とあるが死因に記載はない。 『岡崎領主古記』には、天文18年3月6日に広忠が岡崎において「横死」したとして以下の所伝を記している。「佐久間」なる人物が広忠を討つべく家臣を岡崎へ奉公にだした。広忠はこれを「片目弥八」と呼んでいた。この日、広忠が縁側にでて「炎」(灸)を近侍のものにみせていたところ「弥八」が「後ヨリ討奉テ」逃走した。彼は「大手先ノ堀ノ中」で討ち取られた。 『三州八代記古伝集』には、広忠は病死したとしつつ(巻8下「広忠公御早世ノ事」)、一説として「片目八弥」による広忠の殺害を次のように記している(同「安城ノ城攻之事」。年次不明)。「八弥」は「広瀬ノ領主佐久間九郎左衛門」が広忠に近侍させたもので、「兼テ申含メ」られた八弥は「御書寝被成ケル所ヲ不意ニ討奉リ」逃走した。彼は「植村新六郎」によって堀に追い詰められ、討ち取られた。 植村家貞の『貞享書上』(内閣文庫刊行本『譜牒余録』中巻723頁および『朝野旧聞裒藁』678頁に採録)には、広忠を脇差で刺したものの殺害するには至らず、八弥はその首を植村新六郎家政にとられ、この功により植村は感状を与えられたと記している。年次は不明である。 『武徳大成記』には、天文15年の記述の後に「此頃」の事として記す。それによると、八弥は「隣国のために謀られ」刀を抜いて寝所の広忠を刺した。逃げたところを植村新六郎家政に捕らえられ、2人は堀の中に落ちた。松平信孝が鑓で八弥を突こうとしたが、結局植村がその首を斬ったという(刊行本1巻96頁)。植村が感状を受けたことなども記されている。広忠は病死したとする(刊行本1巻106頁)。 『三河後風土記』には、天文14年3月19日、松平広忠が、戸田弾正康光が娘を娶り、祝いの席で皆が奇芸を披露したも、一眼の岩松八彌は武勇はあるが遊芸などを知らず、嘲わられたという。その翌日広忠が手洗い場に立った所を、後方から八弥が村正の脇差で刺そうとした。広忠はこれをかわしたが傷のため追いかけることができず、番替わりで登城の折の植村新六郎家次が異変に気付き、逃亡した八弥を追い詰め、手傷を負うも捕らえた。また松平信孝がこの異変に気付き、槍で八弥を突き留めたという。松平広忠は、傷を負うも死亡には至らず、天文18年3月6日に病死したとする。
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