広島スタッフとして
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引退後はサッカー指導者ではなく、いわゆる裏方として活躍した。1991年11月に今西和男以下4人でマツダSCのプロ化に向けサンフレッチェ広島設立準備室を設置しているが、この時点では織田はサンフレッチェ広島に絡んでいない。 1992年4月、マツダからサンフレッチェ広島に出向、つまり広島創設時からのスタッフの一人である。以降は広島強化部の一員として、現場マネージャーやスカウトとして活躍した。 2001年、広島強化部長に就任した。この年から、広島は今後地方クラブが生き残る手段としてクラブ全体のサッカースタイルをより攻撃的で魅力的なものへと模索し始めた年であり、その中で広島アカデミー(育成組織)を充実させている。この間、広島は2度のJ2降格・2度の(1年での)J1昇格・2度のJ1優勝。 なお織田が強化部長となった2001年当時のゼネラルマネージャー(チーム強化部門の実質的なトップ)は専務の今西和男で、2003年から2006年2月までGMは高田豊治が担当しており、織田が実質的なトップとなったのは2006年2月以降の小野剛/望月一頼/ミハイロ・ペトロヴィッチ/森保一の4人の監督時代で、つまりペトロヴィッチをスカウトしその後森保へのバトンタッチを行ったのは織田である。特に2度目の降格である2007年は、責任を取る形で織田も含め久保允誉社長以下常勤取締役はすべて退任したものの、織田自身は強化部長として引き続き在籍、更にペトロヴィッチにも責任を取らせず留任という異例の決断が行われたが、これは後に評価されることになる。2014年には日本サッカー協会から原博実の後任として技術委員長のオファーをされたが固辞している。 2015年2月、第18回統一地方選挙にて執行される広島市長選挙にて小谷野薫社長が立候補することになり退任、それに伴い急遽サンフレッチェ広島代表取締役社長に就任する。マツダ出身社長としては信藤整以来17年ぶり、選手出身でスタッフとしても生え抜きの人物としては初の社長になる。2017年、チームが降格圏付近に低迷したこともあり、3年任期の満期を迎えて社長を退任した。
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