幕府瓦解後の町政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/16 01:48 UTC 版)
慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れたと知らされた長崎奉行・河津伊豆守祐邦は、1月14日の夜にイギリス船で江戸に脱出してしまった。河津に後を託された福岡藩聞役の粟田貢は、当時長崎にいた諸藩の者や長崎の地役人の薬師寺久左衛門達と協議し、新政府からの沙汰が下るまでこれまで通りに諸事を取り図ることを決める。諸藩の藩兵や地役人の子弟や地元の剣客で組織された振遠隊が治安の維持に当たり、薩摩藩や長州藩等16藩による協議体が長崎の政務を合議で行うこととなった。長崎奉行所西役所に長崎会議所を設置し、町方係を設け、その下で従来の乙名を肝煎行事と改め、町方行政を担わせた。 同年2月15日、澤宣嘉が長崎に送り込まれ、長崎裁判所総督に着任。即日、長崎の市政に対する新政府の方針が示された。その通達は、地役人の異常な多さを指摘し、代々の家禄を廃止するとともに、当面の外交・貿易事務維持のための暫定的な体制をとるというものであった。肝煎行事は肝煎に改め(後に乙名に改称)、公選制とし、肝煎から選ばれた年番5人が町方の行政事務に当たった。 明治2年(1869年)、乙名は官選となり41名が選任(その内、頭取が1名・年老が4名)、1名が2 - 3町を分担した。同3年(1870年)に町会所は市郷会所と改称。明治4年(1871年)乙名が廃止され、官選の町年寄17名が置かれる。翌明治5年(1872年)に長崎の町を17区に分けて管轄させた。
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