常葉会
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賀古は医学部の仲間や鷗外と歌の交換をしている。井上通泰から白魚を贈られて賀古が返礼につづった歌を聞くと、鷗外が一首詠み、手紙でその歌を受けた妹の小金井喜美子が返歌を書いたものが伝わっている。 賀古 隅田川 桜のもとに 舟うけて かすみの中にくみし白魚か鴎外 春川の 日影にはえて さらさらと あみをすべりし 白魚やこれ小金井喜美子 ゆくりなく 汚れし耳を 洗ひけり かげもすみ田の花のした水 軍医長時代の賀古は中国へ出発する鴎外を歌で送った。 賀古 船出する 宇品の島も 霞みけり 遙かに君を 送るにやあらん鴎外 さらばさらば 宇品島山 なれもまた 相見ん時は いかにかあるべき 賀古と鴎外は1906年(明治39年)6月10日、佐々木信綱・小出粲(こいで つばら)・大口周魚・井上通泰を浜町の『常盤』と言う料亭に招き、新しい短歌会を興すことを諮った。当時短歌は旧派(桂園派の流れ)と新派(正岡子規・根岸短歌会など)に分裂しており、常葉会は短歌会の調和を諮ることを目的として1906年(明治39年)9月23日に第1回歌会が賀古邸で開かれる。月1回、第2土曜日に山県有朋の支援を受けて飯田町の賀古邸と山県の椿山荘あるいは古稀庵で原則隔月に催した。入撰作を纏めた『常盤会詠草』は第1編発刊の1909年(明治42年)から1917年(大正6年)12月まで全5巻刊行され、集まりは山県が亡くなる(1922年(大正11)2月)まで185回続いている。
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