師団本部の最期
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「第33SS武装擲弾兵師団」の記事における「師団本部の最期」の解説
1945年4月25日朝から26日晩にかけて、「シャルルマーニュ」師団(連隊)の将兵はベルリン北方地域で対戦車障害物建設工事に従事していた。しかし、27日午前中にソビエト赤軍が彼らの陣地まで数十キロメートルの地点に進出すると、ジャン・ブデ=グージ武装少佐は師団本部をツィノウ(Zinow)西方へ移動させた。翌28日、赤軍は「シャルルマーニュ」の駐屯地であったベルクフェルト(Bergfeld)を占領した。 5月1日夜、「シャルルマーニュ」師団本部と第58SS大隊はシュヴェリーン地方に到達したが、そこで彼らは第二次世界大戦の序盤でドイツ軍の捕虜となったフランス軍将兵の一団と遭遇した。笑顔のフランス軍将兵は「シャルルマーニュ」師団本部の者たちに対し、イギリス軍は既にエルベ川を渡って攻勢を開始しており、また、「イギリスのラジオ」(BBCワールド・サービス)が現在伝えるところによれば、イギリス軍は約30キロメートル先の地点に進出していると知らせた。師団本部の者たちはこの情報に感謝すると同時に、ソビエト赤軍がわずか10キロメートルの地点にまで迫っていることをフランス軍将兵に伝えた。表情から笑みが消えたフランス軍将兵は他の捕虜に警告するため、その場から走り去った。 5月2日早朝、「シャルルマーニュ」師団本部は西から迫るイギリス軍と東から迫るソビエト赤軍のちょうど中間地点にいた。その後、ラジオを通じて、総統がベルリンで死んだという知らせがもたらされた。ジャン・ブデ=グージ武装少佐は師団本部のドイツ人要員に対し、国防軍部隊に合流するかドイツ軍戦線に辿り着くように命令した。そして残ったフランス人義勇兵には、イギリス軍に投降するか、民間人の服を着て捕虜あるいは徴用された外国人労働者を装うかの選択権が与えられた。 この時、ジャン・ブデ=グージ武装少佐と7名のフランス人義勇兵は民間人の服に着替えることを潔しとせず、「誇りある軍人として」イギリス軍への投降を選んだ。5月2日午後3時、彼らはボビッツ(Bobitz)鉄道駅においてイギリス軍のオートバイ兵と遭遇した。次いで、武装親衛隊の一員ではなく国防軍(陸軍)の反共フランス義勇軍団の指揮官であることを主張しながら、ブデ=グージは1人のイギリス軍戦車将校に近付き、イギリスの将軍のもとへ案内するよう要求した。 その後、イギリス軍戦車の一団はジャン・ブデ=グージ武装少佐を戦車の上に乗せ、この反共フランス義勇軍団の指揮官を共産主義者に引き渡すためにソビエト赤軍のもとへ向かった。
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