帆布産業と、教会囲い地建設をめぐる近隣の村との競争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/31 08:24 UTC 版)
「ギミリオー」の記事における「帆布産業と、教会囲い地建設をめぐる近隣の村との競争」の解説
15世紀以降、ギミリオーはアマやアサを原料とする織物産業の中心であり、このためギミリオー一帯は富を蓄えた。ブルレス家はギミリオーで最も有名な一族で、帆布貿易で財をなし、富裕な農民であるジュロ(julod、julotとも)となった。彼らはペンゼ川に6箇所の洗濯場(ブルトン語ではkanndiと呼ばれ、帆布産業と共に発展)、そして織り機140台を一帯に所有していた。エルヴェ・ブルレスも織り機と脱穀機を作り始めた。 フロリアン・ル・ロワは、16世紀後半に教会囲い地が建設された理由の1つをこう説明する。 『競争相手の町から町へ自由が与えられていた。四半世紀の間、我々は泉、カルヴェール(キリスト磔像)、教会の説教壇、礼拝行進で用いる十字架といったもので死ぬまで争うことになった。同時期、サン=テゴネックのファブリシアン(fabricien、教区の世話人)とギミリオーのファブリシアンは、最初は凱旋門、そして第二に150人もの人物が彫られた、ユグノー戦争の際に見られた騎兵とランツクネヒトが全体に展開したカルヴェールを受注した。ただちにサン=テゴネックは、ギミリオーが自分たちを超えられないように、キリストとともに磔刑にされた2人の強盗の十字架像を受注した。プレバンは記念碑のポーチとカルヴェールを最終的に奮発した。ギミリオーはその後、洗礼堂、パイプオルガンの外装ケース、我々が目にした説教壇を望んだのである。素晴らしい!サン=テゴネックはローマのサン・ピエトロ大聖堂にふさわしい説教壇、そしてモルレーの彫刻家レスパニョールの手による墓碑を手に入れてすかさず反撃した。孤立した山地の中にある全ての教区が、ライバル意識をむき出しにしたのである。シザンは凱旋門を持ち、コマナは驚くべきポーチを持ち、またボディリスもしかりであった!』 カルヴェールと同様、教会内の彫像や絵画は、子供に対しては公教要理の、大人に対しては説教のため、現代で言うところのバンド・デシネの役割を担っていた。
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