岩瀬会戦と大館戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 03:02 UTC 版)
30日と9月1日は両陣とも攻撃準備を行っている。2日午前6時に佐賀の大砲の音を合図に、岩瀬村において久保田藩側の総攻撃が始まった。盛岡藩側も待ちかまえており、この岩瀬会戦が南部・秋田戦線の最大の戦闘となった。この戦闘では佐賀兵も一時撤退を指揮官に訴えるなど苦戦した。また、盛岡側も楢山佐渡が敗兵を厳しく叱責するなど敢闘精神を見せたが、正午頃には大勢が決まり、盛岡藩兵は撤退した。このとき、米代川沿岸にいた盛岡藩兵は久保田藩側の急迫に退路を失い、渡河する途中で多くの犠牲者を出した。大館南部の山道を辿った久保田藩の部隊は板沢村の盛岡藩の部隊を急襲、盛岡藩側は前線から離れている場所の昼食時という不意を狙われ、幹部級の戦死者4名をだし、多量の軍資金や軍需品を置き去りにして敗走した。 詳細は「岩瀬会戦」を参照 2日から5日にかけては大館近郊での戦いが続いた。双方必死の攻防が続いた。6日朝6時に大館への総攻撃を計画していた久保田藩側だったが、盛岡藩側は扇田村が占領され退路を断たれる危険性をおそれたのか、5日夜に既に大館を総撤退しており戦闘はなかった。6日久保田藩は大館を奪還した。 7日久保田藩兵側は藩境の町である十二所を回復した。その後、十二所地区や雪沢地区で、終戦まで一進一退の攻防が続いた。盛岡藩側も藩境を突破されないように強硬に抵抗を行った。 詳細は「大館周辺の戦い」を参照
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