岡崎裁縫女学校を創立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 04:30 UTC 版)
白井にとって義務教育(当時は小学校義務年限4か年であった)を終わってからの女子教育の遅れは、何としても見過ごすことはできなかった。「女子はいつ不幸な目に遭わぬとも知れない。女子の独立は裁縫による」と考えた白井は女学校創設を決断する。1906年(明治39年)3月27日、附属小学校を退職。同年4月8日、愛知県額田郡岡崎町(現在の岡崎市)大字連尺59番戸に岡崎裁縫女学校(現在の岡崎学園高等学校)を創立した。同年6月13日、愛知県知事より認可され、6月28日に校長となる。 また校長を務めながら1911年(明治44年)5月31日から1914年(大正3年)3月まで岡崎町立高等女学校(現在の愛知県立岡崎北高等学校)で裁縫科の指導も行った。 1931年(昭和6年)9月、岡崎裁縫女学校は岡崎高等家政女学校に改称。引き続き校長を務める。1937年(昭和12年)7月1日、女子教育功労者として岡崎市長より表彰される。 1946年(昭和21年)3月31日、同校長を辞任し名誉校長となる(岡崎高等家政女学校は1948年(昭和23年)9月に校舎を現在位置の岡崎市稲熊町3丁目110番地に移転する)。 1952年(昭和27年)11月3日、愛知県知事より教育功労者表彰を受けた。1953年(昭和28年)5月13日、教導教化の功績顕著であるとして文部大臣表彰を受けた。 1954年(昭和29年)7月25日、他界。享年85。従六位に叙し、勲六等瑞宝章受章。1961年(昭和36年)7月1日、岡崎市名誉市民に推挙される。
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