山梨交通時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 01:21 UTC 版)
山梨交通となってからも電車線の営業は好調であった。特に1945年7月の甲府空襲の際、斉藤専務の素早い判断で上石田駅に全車両を退避できたことが大きい。これにより、市内部分は不通となったものの車両は全て無事で、すぐに上石田駅を仮起点駅として運輸を開始した。空襲で乗合自動車が潰滅的な被害を受けていたので、地元の強力な足となった。 しかし戦後数年して乗合自動車が復興してくると、電車線の勢いにもかげりが見えてきた。1953年には戦災復興事業により甲府駅前周辺の街路が整理されたのを機に、国鉄との連絡運輸を期待して甲府駅前電停を移設してホームつきの電停とし、さらに公園利用者や県庁職員の利用を見込んで中央本線の線路側まで延伸した舞鶴通り上を走るようにルートを変更したが、期待した効果は上がらなかった。 さらに1959年、台風7号と15号(伊勢湾台風)が連続して県内を通過し、電車線も貢川車庫の倒壊や路盤流出など大被害を受けた。これが決定打となり、1961年に廃止が決定。翌1962年7月1日に開業30年余りにして全廃となった。 廃止後、甲府市内の渋滞緩和、甲府盆地西部の交通の便のためにLRTによる新しい鉄道を模索してはどうかという提言もなされている。
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