小川氏の出自
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/12 15:03 UTC 版)
近江小川氏(小河氏)の出自には複数説があり、祐忠の小川氏は、後年の系図では宇多源氏佐々木氏支流(源姓)を称すが、『近江中原系図(江州中原氏系図)』では天武天皇の子・舎人親王の子孫・中原成俊の玄孫・甲良仲平の子・満平を小川氏の祖(中原姓)としており、『近江輿地誌』では藤原氏秀郷流下河辺氏(藤原姓)の流れであるとされ、源頼朝の家臣・下河辺行平の末裔が近江国神崎郡小川村に土着して小川氏を称した小川左京進が祖であるとしている。 ただし、近江国では甲賀郡小川村に小川城(小川山城)を築いた鶴見長実の子孫も代々小川氏を称しており、混同しやすい。この人物は前関白近衛家基に仕えて信楽に入り、近衛経平の命令で近衛家の荘園を守るために小川城を建てた。子孫は信楽地頭となり、足利尊氏に仕えて六角氏の家臣となった。その後、六角氏が衰退するとこの小川氏は、小川城を多羅尾氏に奪われて城主の小川成俊は山城国に逃げている。鶴見氏は大伴姓で豊後国速見郡鶴見郷を本貫地とするものであり、同姓の小川で同じく六角氏家臣であったが、これらとは系譜が異なる。『信長公記』にある祐忠が城主であったという「小川之城」も、甲賀郡にあった山城とは別の城を指しており、祐忠の小川城は神崎郡で場所も異なり平城であった。 応仁の乱後、南近江で六角氏と京極氏が対立すると、犬上郡を支配下に置いた六角氏が、境の佐和山に城を築き、家臣・小川左近太夫を佐和山城主としたとあるが、これが祐忠の祖父か曾祖父であると考えられる。戦国時代後期には北近江の浅井氏の勢力が南下しており、近江の国衆・小川伯耆守は2代目城主として佐和山城を磯野員吉に明け渡して、以後は浅井氏に属した。 祐忠の父は壱岐守という受領名しかわらからないが、これが小川孫三郎という人物であるならば、壱岐守の先代の和泉守が長兄・孫一郎(嫡男の世襲名)で伯耆守は次兄とも考えられるし、壱岐守の父が和泉守であるとするならば伯耆守は大叔父にあたるのかもしれない。伯耆守から土佐守までの経緯はわからないが、いずれにしても、観音寺騒動のあった永禄年間の半ばには、小川土佐守である祐忠の代となっていた。
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