富士産業の解体〜輸送機工業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 08:02 UTC 版)
「中島飛行機半田製作所」の記事における「富士産業の解体〜輸送機工業」の解説
1945年11月24日、企業の解散や資産の処分を大蔵大臣の認可制とする制限会社令が発令され、富士産業も指定を受けた。そこで1946年4月15日、半田を含む15の工場はそれぞれ第2会社を設立し、15社に分割する案を大蔵省に提出した。しかしその案は不許可となり、15社を統一会社とする案を改めて提出した。 ところが1946年7月2日、GHQからの「富士産業株式会社整理等に関する覚書」により、15社に分割して各々の工場は第2会社として独立するよう、解体の指令が出た。 1946年9月6日には三井本社・三菱本社・住友本社・安田保善社の四大財閥本社とともに特殊会社の第一次指定を受け、富士産業は解体されることになった。そして複数社への分割を内容とする再建整備計画(1950年5月31日認可)に基づき、1950年7月に半田工場は富士産業の第二会社として、愛知富士産業株式会社と称し、資本金3800万円をもって発足した。1953年1月に資本金を4000万円に増資した後、8月には社名を輸送機工業株式会社に改めた。 本工場の敷地のうち、戦後は農地改革で未墾地は全て買収の対象となり、半田製作所に残される工場用地の境界は建物から東へ10mとなった。結果、凸凹になった境界線が永く輸送機工業の敷地境界線となった。
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