宮古南静園における多田景義
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「多田景義」の記事における「宮古南静園における多田景義」の解説
実際に就任したのは1938年8月20日である。長身痩躯、長い顔で馬面であった。彼は入園者をきびしく取り締まることを鉄則として、新任早々から、無断外出取り締まりを強化した。なお作業療法の名のもと、毎日入園者を作業に駆り出し、まるで奴隷のように酷使した。そのためたびたびストライキをおこされている。前任者の家坂は監禁室を作らせなかったが彼は1942年に本格的なコンクリートによる監禁室を完成させた。園の境界に鉄条網を張りめぐらした。無断外出に眼を光らせ不在者には減食か監禁室送りであった。軍から強制収容もあり、園内の空気も緊迫した。キリスト教は日本の国体に合わないと、西本願寺から一僧侶をつれてきて、精神訓話をさせた。施設整備と園内の緑化には力をいれた。沖縄県ハンセン病証言集、宮古南静園集編には、上の様な証言は多数あるが、自ら治療したという記載はない。看護婦が断種も堕胎も治療もしたという。空襲が盛んになって、職員官舎も焼け住む所がなくなり、園を見捨てて野原の師団司令部の陸軍の壕に隠れた。その当時、園長と男性幹部職員2名、看護婦(山下)と夫人との写真が残されている。
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