安龍福の素顔とは? わかりやすく解説

安龍福の素顔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 13:52 UTC 版)

安龍福」の記事における「安龍福の素顔」の解説

1828年完成した鳥取藩江石岡嶋正義編述の『竹島考 下』には、安龍福身分を示す腰牌(認識票)の内容書き取ったものがある。腰牌は軍兵所持するものであり、表面には「東莱 私奴賤民) 用 年三十三 長四尺一寸 面髭暫生疵無 主京居呉忠秋」、裏面には「庚午 釜山佐自川一里 第十四統三戸」と記されている。『星湖塞説』にも、安龍福の腰牌のことが書かれており、その表面に「東莱(トンネ)/私奴、用卜、年三十三」とある。安龍福軍兵であり、顔は赤ら顔、やや髭が生え、体には傷がないことが伺える。「庚午」の年に33歳であることから、「庚午」は元禄3年1690年)になるので、1657年生まれであることが分かる身長は、旧尺貫法鯨尺であると思われる一尺は約37.9cmで四尺一寸で(身長は、約155.4cm)となる。居住地彼の証言からも釜山の佐自川一里だったことが分かる。(当時釜山東莱県にある小さな漁村日本出先機関である対馬藩倭館があった) 安龍福日本に連れて来られ時の日本での様子記録されており、『竹島考』では「アンピンシヤハ猛性強暴ナル者」とあり、『因府年表』では「異客ノ内ヘ暴悪ノ者之有」と記されている。強暴暴悪性格であったようで、異国との争い恐れず交渉するなど度胸のある人物と言える安龍福日本語話せる当時釜山には日本出先機関である対馬藩倭館があって、その周囲には朝鮮との貿易係わる日本人町形成されていた。安龍福はこの釜山日本人商人から日本語教わったか、日本商人取引する朝鮮人日本語教わったではないかとされている。彼の言動日本朝鮮証言記録などに残っているが、彼自身書いた航海記録日本での滞在記録などはなく、証言内容曖昧なことから朝鮮語日本語文字はほとんど書けなかった様である。また後の朝鮮での証言記録実際とは食い違う点が多数あり、日本では朝鮮政府使者あるかのごとく振る舞い朝鮮では武勇伝繰り広げた人物ではあるが、朝鮮東莱府使は「風来愚民が、たとへ作為する所があっても、朝家朝鮮政府)の知る所ではない。」(至於漂風愚民設有所作爲亦非朝家所知)(粛宗実録 31巻 23年 2月 14日)と答えており、安龍福朝鮮の役人や使者ではなかったこと、単独行動虚偽の箔をつけて大言壮語していたことが明らかである。

※この「安龍福の素顔」の解説は、「安龍福」の解説の一部です。
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