学問の道へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 02:30 UTC 版)
「アルトゥル・ショーペンハウアー」の記事における「学問の道へ」の解説
ハンブルクに帰ってきた翌年の1805年(17歳)1月、商業教育を受けるために当時のハンブルクで最も優れた実業家にして、ハンブルク市参事(閣僚に相当)であったイェニッシュの商会に入ったが、4月に父が不慮の死を遂げる。1806年(18歳)、伝統あるショーペンハウアー商会が解散すると、義務的に続けられる商業教育と精神的な仕事への渇望との板挟みに会い苦しむようになったが、原稿を書店に渡した後イタリアに旅立つ。翌1807年(19歳)、既にワイマールに移住していた母からの手紙で、学問の道に進むことへの助言と励ましを与えられ、これがアルトゥールの将来を決定することになる。6月にハンブルクを去りゴータのギムナジウムに入り、12月にはワイマールのギムナジウムに転じる。1808年(20歳)、ギムナジウムの校長で優秀なラテン語学者であるレンツにラテン語の会話を習う。。 1809年(21歳)、ゲッティンゲン大学に入学し医学部に籍をおきながら、最初の哲学の師となるゴットリープ・シュルツェのもとで哲学を学び、翌1810年(22歳)には哲学部へ移る。かねてよりシェリングに傾倒していた若きショーペンハウアーにシュルツェは、今後の勉強の目標はカントとプラトンであり、この二人を十分会得するよう忠告する。1811年(23歳)、復活祭の休暇にヴィーラントの招きでワイマールを訪れる。秋にベルリン大学に移り、ドイツの国民的哲学者であったフィヒテの下で本格的な哲学研究を始めると、この時期からさまざまな思索を書き留めるようになる。
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