学問を追求
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 13:55 UTC 版)
「ミカエル・アグリコラ」の記事における「学問を追求」の解説
ミカエルがヴィボルグ(ヴィープリ)で勉強していたとき、彼は姓をアグリコラ(Agricola、「農民」)に変えた。当時、学者の1代目が父の社会地位と職業に基づく姓を用いることはよくあることだった。彼が宗教改革と人文主義をはじめて知ったのは恐らくヴィープリでの出来事であった。ヴィープリ城の統治者は当時のスウェーデン王グスタフ・ヴァーサの部下でドイツ人の伯爵ヨハン7世・フォン・ホヤ(英語版)が統治していた。ヨハン7世は宗教改革を支持しており、礼拝をルター派の流儀で行っていた。 1528年、アグリコラは彼の教師に従って当時スウェーデン領のフィンランドの中心地で司教区の首府であるオーボ(フィンランド語名トゥルク)に向かった。アグリコラはそこでマルッティ・スキュッテ(フィンランド語版)司教の写字生になった。トゥルクに滞在している間、アグリコラはマルティン・ルターのフィンランド人学生の1人目で宗教改革の教えを精力的に広めていたペトルス・サルキラハティ(英語版)と出会った。サルキラハティは1529年に死去したが、アグリコラはその事業を引き継いだ。1531年頃、アグリコラは牧師に叙品された。 1536年、トゥルク司教はアグリコラに勉強させるようザクセン選帝侯領のヴィッテンベルクに送った。彼は新約聖書の原語であるギリシャ語の専門家フィリップ・メランヒトンの講義を集中して勉強した。またルターの門下で勉強を続けた。メランヒトンもルターもアグリコラをスウェーデン王グスタフ・ヴァーサに推薦した。アグリコラはグスタフ・ヴァーサに手紙を2通送り、俸給(英語版)を求めた。それで俸給を確保すると、アグリコラはアリストテレス全集などの本を購入した。1537年には新約聖書のフィンランド語への翻訳を開始した。
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