妻・吉田佐久子
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吉田佐久子は吉田四郎、八千代の長女として大正13年(1924年)4月28日に生まれる。 祖父の吉田新蔵は鳥取藩主席家老 荒尾志摩守の上級家臣。芸術家でもあり書画骨董を好んでいた。鍛治町一丁目の表通りの過半が吉田新蔵所有の貸家であったという。佐久子の父で、新蔵の長男吉田四郎は倉吉市鍛冶町で吉田病院を開いていた。四郎も芸術愛好家であり、佐久子は小さいときから芸術に接して育ち感性が自然と身に付いていった。3人姉妹になっていた昭和6年(1931年)、佐久子が小学1年生の時に父の四郎死去。母の八千代と祖母の「こと」により育てられる。子供の頃からピアノを弾き、声楽が専門であった。鳥取県立倉吉高等女学校(現在の鳥取県立倉吉西高等学校)を首席で卒業。 小学校の恩師であり版画家で民芸運動に携わっていた長谷川富三郎を度々訪問し、芸術や民芸運動に一層興味を持つようになる。そして佐久子もまた、河井寛次郎作品が一番の好みであった。時には長谷川と共に京都の河合寛次郎を度々訪問。河合の娘と同い年であったことから河井寛次郎夫妻に可愛がられた。 佐久子は終戦の年(1945年)の暮れ頃、長谷川富三郎に「たすく」を紹介される。「たすく」も「佐久子」もお互いが知り合う前から恵まれた芸術環境の中で生きており、共に芸術・民芸運動・河井寛次郎が共通項目であり、このような二人が接近するのはごく自然のことであろう。 半年後の昭和21年(1946年)6月、長谷川の媒酌で結婚。吉田家は娘ばかりであったのでたすくは婿養子となり姓を吉田へ。
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