妻の事故死と道路建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 10:07 UTC 版)
「ダシュラート・マンジー」の記事における「妻の事故死と道路建設」の解説
ジェラー村に戻った後、マンジーは農業労働者になった。ジェラー村は、今も昔も資源の乏しい小さな村で、平地にありながら村の南側には石英の急峻な尾根(ラージギル丘陵の一部)があり、ジェラー村の南に位置するワジルガンジーとの交通アクセスを妨げていた。 1959年、マンジーの妻ファルグニ・デヴィが山から落ちて重傷を負った。山から落ちた原因については、村から離れた尾根の南側で仕事をしなければならないマンジーに水や昼食を運ぶため、岩の多い尾根を横切る細い道を歩いているときに負傷したという報告や、尾根越えの道が治療の遅れと関連してはいるが、ファルグニ・デヴィの怪我とは関連していないなどの報告がある。ファルグニ・デヴィはその後亡くなった。尾根の南側からラージギル丘陵を迂回して医者のいる最寄りのアトリまで向かうルートは55 kmもあったためである。 この経験から、マンジーは自分の村をより便利にするために、丘陵地の南北を最短で往来できる車道を作ることを決意した。社会のために何かしなければならないと感じ、自分の村が医療を受けやすくなるように、尾根を切り開くことを決めたのである。この結果として、彼は岩の稜線に長さ110 m、深さ7.7 m、幅9.1 mの道を作り上げた。彼は「岩山を(ハンマーとノミで)打ち始めたとき、人々は私を狂人と呼んだが、それが私の決意を固めることになった」と語っている。 彼は22年間(1960年 - 1982年)で道を完成させた。この道ができたことによって、ガヤー県のアトリ~ワジルガンジー間の距離が55 kmから15 kmに短縮され、マンジーの仕事はジェラー村の人々の生活を楽にした。マンジーはのちに、「最初はほとんどの村人が私をバカにしていたが、後になって食べ物をくれたり、道具を買うのを手伝ってくれたりと、私に協力してくれる人が何人もいた」と語っている。 2007年に彼が亡くなった後、ジェラー村とワジルガンジ-、アトリ、ガヤーとを結ぶ公道が、彼の切り開いた場所に作られた。
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