女王との関係の悪化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 06:55 UTC 版)
「ロバート・デヴァルー (第2代エセックス伯)」の記事における「女王との関係の悪化」の解説
1598年7月1日の枢密院会議は第2代ティロン伯爵(英語版)ヒュー・オニールの反乱に揺れるアイルランドの総督(ロード・レフテナント)人事をめぐって荒れた。女王はエセックス伯の母方の叔父にあたるウィリアム・ノウルズ(英語版)が新しい総督として適当であると述べたが、エセックス伯は宮廷内での味方が減ることを嫌がり、セシル派のジョージ・カーリューを推した。女王がこの提案を笑って跳ね除けるとエセックス伯は女王を侮るような眼付きで見て背を向けた。これに激怒した女王はエセックス伯に平手打ちすると「ここから出ていき、縛り首になりなさい」と叫んだ。それに激怒したエセックス伯は剣に手をかけた。すぐにノッティンガム伯が割って入ったため、大事には至らなかったものの、女王とエセックス伯の関係がぎくしゃくした。このとき、エセックス伯は女王に向かって「これほどの侮辱と無礼を甘受できません。たとえ陛下の父君ヘンリー8世から受けたとしても」と叫んだという。 さらに同年8月には親友の第3代サウサンプトン伯ヘンリー・リズリーがエリザベス女王の女官であるエリザベス・ヴァーノンと秘密結婚して女王を激怒させたが、エセックス伯はサウサンプトン伯を擁護し、女王と再び喧嘩になった。 こうした女王との関係の悪化のせいか、1598年8月4日にバーリー卿の死で空いた実りのいい役職後見裁判所(英語版)長官のポストに就くことを認められなかった。 エリザベス女王の晩年、イングランド有力者はこぞってイングランド王位最有力候補と目されていたスコットランド王ジェームズ6世と接触を図っていたが、この面においてはエセックス伯がライバルのロバート・セシルに先んじており、ジェームズ6世に自らを売り込むと同時にセシルはステュアート朝の擁立に反対してスペイン王女の即位を画策している旨を讒言していた。そして女王との関係が悪化して自分の旗色が悪くなってくると「スコットランド軍を国境地帯に差し向けて王位継承を迫るよう」進言するようにさえなった。
※この「女王との関係の悪化」の解説は、「ロバート・デヴァルー (第2代エセックス伯)」の解説の一部です。
「女王との関係の悪化」を含む「ロバート・デヴァルー (第2代エセックス伯)」の記事については、「ロバート・デヴァルー (第2代エセックス伯)」の概要を参照ください。
- 女王との関係の悪化のページへのリンク