女王の元老としての活躍
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「ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第3代ランズダウン侯爵)」の記事における「女王の元老としての活躍」の解説
結局ピールは穀物法廃止と差し違えで辞職し、1846年7月にピール派(保守党から離脱した旧保守党自由貿易派)の閣外協力を受ける第一次ジョン・ラッセル卿内閣が発足した。この内閣にもランズダウン侯爵は枢密院議長として入閣した。1851年2月には急進派のピーター・キング(英語版)の選挙法改正をめぐる政府案の修正動議がピール派の欠席で可決され、ラッセルが辞表を提出し、保守党党首スタンリー卿(同年6月にダービー伯爵位を継承)に組閣の大命が下るも、保守党も少数党で党がまとまっていなかったため、スタンリー卿が大命を拝辞するという政治危機が発生した。この際に元老政治家である保守党のウェリントン公爵とホイッグ党のランズダウン侯爵の二人がヴィクトリア女王からの諮問に応じて危機の収束に活躍した。女王は二人の助言に基づいてラッセルに再度大命を与えた。 1852年9月にウェリントン公爵が死去すると、女王にとってランズダウン侯爵は唯一の元老となった。
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