女性A殺害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 09:57 UTC 版)
その一方で母K2は夫K1から「自宅アパートにAを連れて行き監視しておけ」と指示され、Aを自車に乗せた上で組事務所のある自宅アパート(大牟田市本町四丁目のアパート)まで連行したが殺害に踏み切れずにいた。K1・K2夫妻は犯行当日の9月17日ごろの深夜、ひどく落ち込んだ様子で玄関に座り込んでいるのを知人女性に目撃されていた。 K2が2004年9月17日10時ごろに長男K3に電話で相談したところ、K3は「殺しきれないなら俺が殺してやる」と申し出た。その一方で2004年9月17日13時ごろ、Aの長男B(事件当時18歳)からBの友人らに対し「弟Cがいない」と連絡があったため、Bとその友人らは後にBとともに殺害された少年D(事件当時17歳)を含めた6人でCの行方を捜索したが、発見できなかったため翌9月18日2時ごろ解散した。B・Dとも仲間と解散してから約2時間後の9月18日4時ごろに行方不明になって友人たちとの連絡が途絶えたほか、それに前後して母Aも知人らとの連絡が途絶え行方不明になった。 殺害方法の思案がつかなかったK2が14時ごろ、再びK3に「もうどうしようもない。お母さんを助けて」と電話で助けを求めてきたため、K3は「K4にAの殺害を実行させよう」と考え、乗用車内で「おふくろがAを殺せと言っている」などと協力を求めた上で「飲食物に睡眠導入剤を混ぜ眠らせた上で殺害する」と決めた。 K2は同日15時ごろになってK3から電話で「殺すなら眠らせた方がいい。食べ物か飲み物に睡眠薬を入れてきてやろうか」と伝えられたため、Aから好物を聞いた上で「お茶と弁当を届けてほしい」と頼み、K3は睡眠導入剤12錠をすり潰してタルタルソースに混ぜた上で弁当のおかずに掛け、弁当を元通り包装した上で弁当をアパートに持って行き、K2に手渡した。K2の勧めでその弁当を食べたAは間もなく寝入ったため、K2は夫K1を呼び、K3・K4も加えて4人で殺害・遺棄方法などを相談した。この時、Aの長男BにA・K2が2人で一緒に行動していたことを知られていたため、夫K1は「Aの長男Bも口封じのために殺し、Aの軽乗用車に2人の遺体を乗せ諏訪川に沈めよう」と主張し、4人の殺害共謀が成立した。 K1・K2・K3・K4の一家4人は2004年9月18日0時ごろ、意識が朦朧としていたAをワゴン車に乗せ大牟田市内の岸壁まで連行し、30分後の0時30分ごろに大牟田港岸壁に駐車したワゴン車内で次男K4がAの首をワイヤー錠で絞め、Aを殺害した(強盗殺人罪)。兄K3はこの時、殺害行為を実行していた弟K4にたばこを手渡したりワゴン車の窓に指で「人殺し」と書いて冷やかしたりしており、K4もK3から受け取ったたばこを吸い、笑いながらAの首を絞め続けていた。 K2は助手席で次男K4がAの首を絞め始めるのを見たてからいったん車外に出たが、Aが死亡したことを確認したK1から「もういい、死んだ」と聞かされても「Aが息を吹き返すのではないか?」と心配したためK4に「Aの首を絞め続けて」と指示した。Aを殺害後、ワゴン車内ではAの遺体が見えないようビニールシートを被せたが、K4はAの遺体の上に座ったり寝そべったりしていた。
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