奠都と遷都の語義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 01:58 UTC 版)
「複都制」および「留守官」も参照 「東京奠都」と「東京遷都」の語の使い方を巡っては議論がある。一義的には「奠都」は都を定める事を表すのに対して「遷都」は都を移すことをいうが、天皇や政治中枢の移動を伴えば実質的にはほぼ同じ意味であり、この場合、旧都を廃することを含んでいるかどうかが論点となる(「遷都」の場合は廃止の語義を含む)。 もともと奠都の語は、明治28年(1895年)に京都市が延暦13年(794年)の平安遷都を「平安奠都千百年記念祭」と称して祝っているように広く用いられる言葉である。明治31年(1898年)に東京奠都30周年を記念して出版された『奠都三十年』(『太陽』第4巻第9号臨時増刊)のなかでは、東京も京都も帝都であるとしつつ東京遷都という表現も同時に見られ、京都は依然帝都で、政治上の必要から江戸にも帝都を定めたのだから遷都と言うことは妥当ではないとする声(井上頼国)も紹介された。 その後、大正期に入った大正6年(1917年)、東京奠都の本格的な研究を岡部精一が初めて著し、そのなかで「東京の奠鼎(奠都)は遷都にあらず」とし、遷都の発表はなく、今日に至るまで都を東京に遷されたのではなく、東京は京都とともに並立して帝都の首都であることは明らかであるとした。続いて大正8年(1919年)、東京市役所の発行した『東京奠都』も、東京奠都は京都留守居官の廃止で完了したが、「その名義に於ては、いつまでも東西両京の並立で、遷都といふ事は、つひに公然発表せられたことはなく」、「京都も一の帝都であるが、事実に於て遷都の事はいつのまにか行はれてゐた」とした。これらの考え方によると、東京奠都に関しては都を移す「遷都」の語を避け、京都と2つ帝都としたのだから都を定める「奠都」と称すべきであるとされる。 現代では一般に「遷都」の語は首都移転の意味にも使われ、「首都が東京に移った」などとも表現される。『京都の歴史』第七巻は、2度目の東幸(明治2年3月)の際の太政官を東京に移す発表を事実上の遷都宣言とし、事実上の首都の座を東京にわたしたとしている。佐々木克(2001年)は、「遷都」より「奠都」が実態を適切に表現するものであったかもしれないとし、京都は都であることを否定されなかったとしながらも、京都が政府機関の置かれる帝都(首都)として復活しなかったため、「奠都」よりも「遷都」が実態を正確に表現しているとしている。 もっとも、奠都・遷都論は「みやこ」の設置廃止についての議論であるにも関わらず首都の問題と絡めて論じられることが通例であるが、法令上「首都」と「みやこ」との関係(とりわけ皇居との関係)の規定はなされておらず、日本における従来の「みやこ」(都・京)と「首都」との関係について定かになっているわけでない。 詳細は「日本の首都」を参照 戦前から戦後しばらくまで「首都」という語はその地方での主だった町(主都・主邑・プライメイトシティ)をも指しており、必ずしも天皇の常住する帝都のみを指していたわけではないのである。
※この「奠都と遷都の語義」の解説は、「東京奠都」の解説の一部です。
「奠都と遷都の語義」を含む「東京奠都」の記事については、「東京奠都」の概要を参照ください。
- 奠都と遷都の語義のページへのリンク