奇計の士を求むとは? わかりやすく解説

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奇計の士を求む

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 17:41 UTC 版)

孝公 (秦)」の記事における「奇計の士を求む」の解説

秦の孝公元年紀元前361年)、黄河及び華山から東には、強国6つあった。すなわち、斉の威王宣王・魏の恵王・燕の文公・韓の哀侯・趙の成侯である。その他の十数カ国は、淮水泗水のあいだの狭い地域押しこめられていた。 これらの強国のうち、と魏は秦と境を接していた。魏は鄭を起点洛水沿って長城築き、北は上郡まで版図広げていた。また漢中中心として南は巴・黔中にまで勢力広げていた。 周王室が衰えてからというもの、諸侯は力によって対立し競って領土拡大したのである。秦ははるか西方僻地にある雍城現在の陝西省宝鶏市鳳翔区南東)に都をおいたため、中原諸侯から夷狄同様にみなされ会盟招かれることもなかった。 孝公仁政努めた孤児寡婦救済し戦士優遇し、また論功行賞公平にするとともに国中布告出した。 「 昔、わが先君穆公岐山雍州付近に国を定めてから、徳をつみ武力充実させ、その結果、東は晋の内乱治めて国境龍門河にまで拡大し、西は戎・狄帰属させた。領土広めること千里、その功によって、天子から覇者認められ諸侯こぞって祝意表した。ここに後世のために国の基礎築かれのであるが、この偉業にもかかわらずその後厲共公躁公簡公出公と代を重ねるにつれ、国内乱れがうちつづき外征どころではなくなった。それどころか、三晋によって、わが先君残され河西の地が奪われ諸侯侮りを受けるありさまこれほど屈辱がまたとあろうか。 だが、献公即位されるに及んで辺境蛮族鎮撫し、櫟陽遷都し、さらに東伐軍を派遣して奪われ領土取り戻し穆公治世再現しようとされた。この献公の志を思うにつけても、私は心が痛んでならない。ここに賓客はじめ群臣告げる。奇計出して、わが秦を強大にする者には、高い位と領邑与えであろう 」 こうして、秦の外征開始され、東は陝城を包囲し、西は戎の豲王を斬るという成果をあげた。 そのころ、衛の公孫鞅以後衛鞅)は、孝公布告伝え聞いて秦に入国した。彼は孝公寵臣景監(中国語版)を通じて孝公目通り願い出た

※この「奇計の士を求む」の解説は、「孝公 (秦)」の解説の一部です。
「奇計の士を求む」を含む「孝公 (秦)」の記事については、「孝公 (秦)」の概要を参照ください。

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