天王太子となる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/04 08:48 UTC 版)
357年6月、父の苻堅が天王位に即くと、天王太子に立てられた。 365年7月、匈奴の右賢王曹轂・左賢王劉衛辰が前秦に反旗を翻すと、苻堅は自ら精鋭部隊を率いて討伐に赴き、苻宏は衛大将軍李威・左僕射王猛の補佐の下長安の留守を預かった。 370年11月、苻堅が前燕併呑を目論んで鄴へ向けて親征すると、苻宏は李威の補佐の下長安を守備した。 苻堅は丞相王猛に絶大な信頼を寄せており、常々苻宏や長楽公苻丕へ「汝らが王公(王猛)に仕える事は、我に仕えるのと同じであるぞ」と言っていた。375年7月、その王猛が病没すると、苻堅の悲しみぶりは大変なものであり、葬儀に際しては三度に渡って慟哭した。そして苻宏に向かって「天は我に中華を統一させたくないというのか?何故我から景略をこんなに速く奪ったのだ!」と嘆いたという。 382年、苻堅は東晋征伐に強い意欲を燃やしており、群臣はこれを再三諫めていたものの全く聞き入れなかった。11月、苻宏もまた進み出て「今、呉(東晋)は歳を得ており(歳星=木星が江南地域を守護するとされる位置にあり)、伐つべきではありません。さらに晋主(孝武帝)は無罪であり、人をよく用いております。謝安・桓沖らとその兄弟はいずれも一方の俊才であり、君臣は力を合わせており、険阻なる長江もありますから、まだ図るべきではありません。今は、兵を養って粟を積み、暴主の出現を待ち、一挙にこれを滅すのです。もし今動いても功はなく、外においては威名を損ね、内においては資財を枯渇させるだけになってしまいます。古の聖王の行師とは、必誠を判断し、その後にこれを用いました。彼がもし長江を頼みとして固く守り、江北の百姓を江南に移し、清野に城を増やし、門を閉じて戦に応じなければ、我らは徒に疲弊するだけです。彼が弓を引かなければ、土地の疫病にも侵され、長く留まる事は出来ません。陛下はこれをどうお考えでしょうか」と問うた。苻堅はこれに「往年、車騎(王猛)が燕(前燕)を滅した時も、歳が侵していたがこれに勝利したぞ。天道とは幽遠であり、汝が理解できる所ではない。昔、始皇が六国を滅ぼした時、その王はいずれも暴君であったというのかね。それに我の心は久しく前より決まっている。兵を挙げれば、必ずや勝利するであろう。どうして無功に終わろうか!我は蛮夷に内から攻めさせ、さらに精甲・勁兵で外から攻撃する。内外からこのようになれば、勝てない事があろうか!」と反論した。沙門の釈道安もまた「太子の言が正しいです。願わくば陛下がこの意見を容れる事を」と諫めたが、結局苻堅は聞き入れなかった。
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