大都市の外観
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 17:19 UTC 版)
宋代開封の遺跡は現在の開封市の地下に埋まっており(後年に黄河が氾濫し、多量の土砂が運ばれたため)、1981年より発掘が進められている。 後周世宗が開封を建設する際に部下であった太祖を馬で走らせ、馬が力尽きた地点を開封の外城としたという。開封には外城以外に内城と宮城の三層の城壁が張り巡らされた。出土した遺跡は南北が約7600m・東西が約7000mで、歴代王朝の伝統であるほぼ正確な方形ではなく城壁が一部で湾曲した長方形となっている。全体的な規模は長安より一回り小さい。 南宋の臨安(現在の杭州市)は西湖の畔にあり、南の鳳凰山や西湖の地形の制約の為、伝統的な方形ではなく縦長な形で、同時代人からは評判が悪かった。その後、元代に少し拡張され、また現代になってから城壁が取り払われた。それ以外では現在でも杭州は宋代の町並みを良く残しており、当時の面影を知ることができる。 郊外には民家が点在し都市に近づくほどその数は増える。城壁の内部は廂により区画分けされたが、城壁の外も廂による区画分けが行われ、時に城壁の外の廂を取り囲む形で新たな城壁が築かれる場合もあった。 開封の城壁は高さ9m厚さ15~20mで、臨安や蘇州は5-7m(中国の大都市としては低い)とされる。城壁の外から見えるのは宮城や寺の仏塔など特別に高い建物だけであり、民家などは見えなかった。開封は平原の真ん中に在り防衛に不安があったため、城壁を全て塼(レンガ)で覆い、城壁を強化した。 宋初、下詔により城門は夜の三更から朝の五更までは出入り禁止とされたが、短期間で済し崩しとなり廃止された。門の付近には多数の商人や旅人が開門を待っており、それを当て込んで食べ物を売る屋台が開かれていたという。 宮城から伸びる大通りも、前代までは朝廷の専用道であり権威を象徴したのに対して、宋代には酒家や商店が溢れ、更に度々禁令が出されたにも拘わらず路上にまで店が並んでいた。
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