大都市の交通
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 17:19 UTC 版)
街路は幅80m,50m,40mの3種類があり、暑熱と湿気対策として両側には5m,8m間隔で様々な植樹がされた。街路の両側や路上には酒家や商店が並ぶなど活気に溢れ、都市制度が唐代までと大きく異なる要因となった。 唐代までの都市は細かく区画され、区画を区切るための壁と門が設けられていた。区画を坊・門を坊門と呼ぶ(坊制)。坊門は定時に閉じられ、外出は禁じられた(坊内では比較的自由に行動できた)。唐の支配の緩みと共に住民は生活に不便な壁を壊し、宋代では里坊制に代わる廂坊制(坊巷制)によって、開封新旧城を10の外城を9の廂に分け、各々の廂につき1,2つの坊が置かれ、壁は存在していない。 唐代までは商いを営むには登録が必要であり、また商売を行える場所も都市の中の特定の坊に定められていた(市制)。前述のように坊は時間が来ると閉門するため夜間は外来客はなくなる。ただ坊内の住人に対しては営業していたようである。宋代になると市制も崩れ、多種多様な人々が街の色々な場所で商売を営むに至った。また坊制の消滅により夜間も商売が行われるようになった。 宋代の街路には店屋が並び、その前には商品が並べられ、また屋台が建てられるなど、人と物に溢れその活気は空前であったとされる。また街路が瓦や石の埋め込みにより舗装され、四川の眉州では石畳で舗装されていたという。 宋代の輸送においては、陸路よりも水路の重要性が大きい。開封では内部を三本の運河が通り、それを通じて江南からの物資が運び込まれた。江南の都市では水路の重要性は更に高く、現在の杭州市や蘇州市のように都市への出入りも都市内での移動も運河が主となる。主要な運河の脇には店が立ち並び、接岸して売買が行われた。
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