大河平事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/26 09:40 UTC 版)
詳細は「大河平事件」を参照 1877年(明治10年)に西南戦争が起こると、大河平の士族は西郷隆盛の薩軍に参加、14代隆芳の嫡子鷹丸もこれに加わったが、戦傷により帰郷し大河平の別邸(本邸は鹿児島)に妻子と共に在った。そこへ、小林に本営を置いた薩軍より、官軍が大河平にまで侵入すれば不利となるため、大河平の村々を焼くよう鷹丸へ指示が下る。鷹丸はこれに応じ、5月4日の夜半に60余村を焼亡させた。 ところが、飯野越えを守備していた大河平臣下の川野通貫・清藤泰助らはこれを聞いておらず、6月13日の敗戦の折に大河平へ戻ると、灰燼と化した村々に驚愕し鷹丸らを追いかけて襲撃、鷹丸らは鍋倉の親戚の家へと逃れる。二日後、その鷹丸の元へ鷹丸の妻子がやってくると、川野らは鷹丸とその妻子ならびに従者の悉くを刺殺した(うち、鷹丸の次女と三女、及びセツという従者の三名は無事に逃れる)。 鹿児島の本邸でこれを聞き知った隆芳は鷹丸の仇討ちと称して、また、川野らが6月17日に官軍に投降していたことから薩軍は大河平士族の官軍への内通を疑い、大河平士族の拿捕を敢行した。また、士族の妻子も捕えられ、宮崎へ送られるとそこで処断された。 西南戦争終結後、隆芳は鷹丸を殺害した者達を告訴、密かに逃亡していた川野を除く全員が逮捕されたが、清藤は収監中に脱獄した。1879年(明治12年)、首謀者二人を欠いたまま下された判決は懲役1年というもので、隆芳はこれを不服として上告、また私財を投じて川野と清藤の捜索を行った。うち、川野は高鍋の山中に潜んでいるところを発見され引き渡される。そして1881年(明治14年)、川野には三度の裁判の末に死刑が宣告された。
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