隆芳の報復
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/06 03:57 UTC 版)
隆芳は一族郎党を率いて大河平へ急行、惨劇の有様を目の当たりとする。隆芳らは鷹丸の仇と称して、また薩軍は川野らが官軍に投降したことから大河平士族の官軍内通を疑い、大河平士族の拿捕を決定する。それを知った大河平士族の村岡十郎左衛門・渡辺七郎兵衛の二人は、小林の薩軍本営へ出向くと、自身の子らは薩軍に参加し各地を転戦しており、官軍に内通する筈がないと述べたが、大河平士族と言う理由だけで斬殺された。 薩軍の攻撃に抵抗した者は討ち死に、そうでない者は逃亡に及んだ。また、隆芳は士族の妻子を捕えると宮崎へ送って処断、更に米穀を奪い牛馬を屠殺した。無事に逃れた者のうち、狗留孫峡を越えた老人・女・子供30余人は坪屋村の官軍に投降した。また、官軍に投降するのを危惧した者達は、球磨の大畑方面へ逃れて農家の世話になり、そこで田植えや雑草取りなどを手伝いながら9月頃まで匿われた。
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