凶徒らの処分
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/06 03:57 UTC 版)
西南戦争終結後、隆芳は鷹丸を殺害した者達を告訴する。このとき、川野は密かに逃亡しており、それを除く全員が逮捕された。但し、清藤はその収監中に脱獄する。 1879年(明治12年)、首謀者である川野・清藤の二人を欠いたまま鹿児島裁判所にて判決、凶徒らに懲役1年が言い渡される。隆芳はこれを不服とし長崎上等裁判所へ上告、更に多額の私財を投じて、逃亡中である川野と清藤を探索させた。うち川野は、高鍋の山中に潜んでいるところを発見されて引き渡された。川野には1881年(明治14年)9月、三度目の裁判にて死刑が宣告された。 また、隆芳は裁判費用ならび、川野・清藤捜索費用捻出のために、所有していた7,800haの領地のうち立木200haをフランス人実業家のデニーラリューに売却するのであるが、後にこれが、宮崎県初の労働争議となるフランス山事件へと繋がっていく。
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