大正・昭和初期の拡張
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 10:42 UTC 版)
1907年(明治40年)頃から港湾の拡張を望む声が上がり、特に1917年(大正6年)、波村仁太郎が発動機船を建造してから船の大型化が進み手狭となった。このような中、1919年(大正8年)4月5日に串木野築港期成同盟会が発足し具体的な準備が始まった。翌1920年12月、鹿児島県議会で小瀬港の北側に新しい港湾を設けることが決まり、1921年(大正10年)11月2日に着工、同年12月14日には盛大に起工式が執り行われた。当初は1927年までの7年計画であった。 ところが工事関係者は当初の拡張計画では不十分と考え新たな拡張計画を立て、県議会の了承を得ないまま工事を行ってしまった。このため議会が紛糾し、工事は約1年間中断した。議論の末、1928年(昭和3年)12月に県議会で拡張案の変更が了承された。総面積30900坪の埋め立てという当時の鹿児島県内では最大の港湾整備事業となった。資金不足の問題などから着工が遅れ1930年(昭和5年)になってようやく工事が始まった。 当初は1933年までの3年計画であったが、1930年7月に暴風雨の被害を受けるなどして1932年(昭和7年)には再び資金不足に見舞われ工期が延長されている。新しい港湾施設すなわち串木野漁港は1937年(昭和12年)6月にようやく完成した。一連の拡張工事には16年の歳月と205万円の費用を要した。
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