大山崎油座の衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/20 15:21 UTC 版)
応仁の乱の勃発により京都で大戦が起きると、隣接する大山崎の地にも戦火が及んだ。上記のごとく東軍として参戦する侍がいた一方、製油に携わる神人たちは逃散する事態となった。文明3年(1471年)には西軍総大将山名宗全が山崎天王山に山城を築いて、淀・鳥羽・八幡の通行を抑制し、翌年8月には畠山勢がこれに夜襲を敢行するなど、本格的戦闘に巻き込まれ、荒廃していった。逃散した神人たちは乱の収束に伴って大山崎に戻りはじめ、製油・油商売も再開するが、従前とくらべ頽勢は明らかであった。また、石清水放生会が応仁の乱前後から停止されたことも(約200年後の江戸時代延宝7年(1679年)に復活)、神威による強訴という手段を多用してきた大山崎神人にとって影響力を低下させる一因となった。 戦国時代に入って守護の在京原則が崩壊し、各地で割拠する戦国大名が出現すると、自国商人保護政策や楽座政策などの地域振興的な経済政策がとられるようになっていく。その結果、大山崎油座のような旧来の中世的な座のあり方は、これら戦国大名によって否定されるようになった。各地に存在した大山崎散在神人もやがて地域領主と結び、大山崎の本所神人との関係を絶つ者が現れるようになった。 地方都市の発達による新儀自由商人の勃興により、大山崎油座の商圏は浸食されていった。すでに応仁の乱後には大山崎で油を購入することなく、自ら生産販売する商人が出現しており荏胡麻の仕入れにも困難を来すようになっていた。16世紀に入る頃には、大山崎の独占販売権も崩壊・有名無実化していったため、新興商人による油の流通・販売を認める代わりに「油場銭」と呼ばれる一種の通行税を徴収するという妥協策を採用せざるを得なくなっていく。
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