大四日市構想への転換
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/05 07:52 UTC 版)
昭和初期に四日市市長に就任した吉田勝太郎は、1935年(昭和10年)に入ると「国産振興四日市大博覧会」の開催計画を具体化する一方「グレート四日市」建設計画を唱えるようになる。吉田市長は三重県営第3期港湾修築計画を推進して、四日市港利用の工業地域としの後背地を南部の塩浜地区・三重郡常磐村・三重郡日永村・三重郡楠町だけでなくて、四日市市の北側臨海部の三重郡富田町・羽津村まで構想に入れた。これに対して三重郡富田町は三重県に「朝明市」実現を積極的に三重県に働きかけた。昭和11年度に三重県は2町2村の対等合併による朝明市建設を推進する一方で将来的に大四日市市建設される場合富田・富洲原地域も含まれて朝明市ではなくて朝明地域も四日市市の一部になり、大四日市都市計画を研究するとしたため、朝明市合併対象の5町村の基本的に大四日市市建設の反対しなかったため、朝明市構想は後退して四日市市への合併構想が進行した。1936年(昭和11年)12月19日四日市市議会の全員協議会は税金の課税率、合併後の特例議員数及び町村基本財産の処分方法など大四日市建設の合併大網を決定して合併委員を選出して各町村との協議を進めた。1937年(昭和12年)7月に三重郡羽津村・三重郡日永村と四日市市の合併協議がまとまったが、日中戦争の勃発で、この合併の延期となった。生川平三郎が三重郡富洲原町と三重郡富田町の合併問題に取り組み合併交渉を推進をした。(しかし富田町との主導権対立で富田と富洲原が対等合併をする「朝明市構想」の推進計画から、合併計画が変更されて、結局、富洲原町が選択したのは「大四日市構想」によって四日市市の一部となり吸収合併をして四日市市富洲原地区となった。
※この「大四日市構想への転換」の解説は、「朝明市」の解説の一部です。
「大四日市構想への転換」を含む「朝明市」の記事については、「朝明市」の概要を参照ください。
- 大四日市構想への転換のページへのリンク