城内構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 06:54 UTC 版)
本丸 内堀より中は総石垣で囲われ、1770年(明和7年)に花の丸御殿が造られるまで、藩の政庁及び藩主の住宅である本丸御殿が置かれていた。櫓門は3カ所、北不明門、東不明門、太鼓門。櫓はいずれも二重で4カ所にあった。 二の丸 東側の区域には1759年(宝暦9年)まで二の丸御殿が置かれていて、その後、土蔵が建てられる。西側の区域には石造りの煙硝蔵が建てられていた模様である。門は西不明門、石場門、南門があった。 三の丸 三日月堀の外の曲輪で、材木小屋、屋根師、大工、畳師などの作業所や物置、武具奉行役所が置かれていた。東側に大御門(大手門)が置かれていた。 花の丸 三の丸の西側にあり、茶屋、草木が植えられ、藩主の遊園地として機能していたが、1770年(明和7年)に花の丸御殿が建てられ、幕末まで藩の政庁及び藩主の住居が置かれた。 水の手 本丸の北側一帯。吾妻番所、土蔵が置かれていた。宝暦年間に千曲川の瀬替え工事が行われ、新堀が造られた。1828年(文政11年)佐久間一学が命を受け、花の丸西から水の手まで土手を築き、「不崩の土手」と命名された。 御蔵屋敷 城の東側一帯、石場門の外(牛堀の東)を御蔵屋敷と呼んでいた。構内には、御蔵奉行役所、郡奉行役所、勘定奉行役所、評定所などが置かれていた。 馬場 花の丸南側に「桜の馬場」、御蔵屋敷の北側に「紅葉の馬場」があった。 演武場 文政年間頃、「桜の馬場」より南清須町の間に造られた。 総構え 城下町(町八町)を取り囲むように江戸の初め頃造られたが、人口の増加とともに崩され、現在では長国寺の裏側(東側)に高い盛り土が残っているのみである。 内堀 本丸を囲っている堀。 外堀 二の丸を囲っている堀。 三日月堀 二の丸南門南側にあった堀。 三の堀 三の丸と花の丸の一部を囲っていた堀。 牛堀 外堀の東側の堀をこう呼んでいた。 百間堀 千曲川瀬直しにより旧流路を利用した堀。 新堀 曲川瀬直し後、造られた堀
※この「城内構造」の解説は、「松代城」の解説の一部です。
「城内構造」を含む「松代城」の記事については、「松代城」の概要を参照ください。
- 城内構造のページへのリンク