地質課土性掛への就職
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 21:19 UTC 版)
明治政府は鉱業に関しては欧米からの技術、知見の導入に積極的であったが、農業に関してはまず江戸時代末期からのいわゆる老農と呼ばれる、これまでの知見、ノウハウを集大成した現場のプロの技術を普及していく方針を採っていた。しかし農業に関しても欧米からお雇い外国人を招聘して1876年に札幌農学校を開設するなど、欧米からの技術導入を図りだした。恒藤が学んだ駒場農学校もこのような流れの中で1878年に開設された。 1877年、ナウマン(Edmund Naumann)と和田維四郎はそれぞれ別に地質調査体制の確立と拡充、地質調査所の設置を求める意見書を提出する。ナウマンと和田の意見は採用され、1878年5月に内務省地理局内に地質課が設置された。ナウマンは1879年、内務卿伊藤博文に長文の意見書を送り、5月20日に採択された。意見書の中でナウマンは農業における地質測量調査と、リン酸など鉱物源肥料の重要性を力説していた。 ナウマンは1879年9月、土壌調査の専門家らを招聘すべくドイツに一時帰国した。1879年11月、地質課の分析掛長としてコルシェルト(Oscar Korschelt)が着任し、翌1880年8月にはリプシェル(Georg Liebscher)が土壌調査を担当する土性掛長として着任した。 1880年6月に駒場農学校を卒業した恒藤は、卒業後まず宮城県、岩手県、福島県に地方農業に関する実地研修に派遣された。実地研修後の8月には内務省勧農局地質課土性掛に採用された。なお地質課土性掛には駒場農学校の同級生らも採用された。1881年4月に農商務省が発足すると、恒藤らの所属する内務省勧農局地質課土性掛は農商務省に移管され、農務局地質課土性掛となった。そして1882年5月には農務局地質課が廃止となって地質調査所が設立されたことに伴い、恒藤は地質調査所土性掛に勤務することになった。 しかし恒藤らが就職した地質課土性掛の体制は安定しなかった。土性掛長のリプシェルは地質課の総責任者であるナウマンと対立し、1881年3月には契約違反の名目で解雇された。リプシェルの解雇後、土性掛は分析掛長コルシェルトが指導する形となった。責任者が兼職のような形となった土壌調査は、地質調査、地形測量など他分野よりも事業の進捗が遅れていた。その後1882年11月、恒藤が師事することになるフェスカが土性掛長として着任して、土性掛による土壌調査はようやく軌道に乗ることになった。恒藤の初期の仕事としては、1881年と1882年の秋から冬にかけて相模、武蔵の各地で土壌調査を実施し、1882年には多摩郡内に農業試験場を開設して肥料効果や土壌改良の研究を行った。
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